神は存在するか?2
前回では結論として「神はいないが、いると思いたい人間がいる」と言い、最後に「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~」とお茶を濁した形で終わりましたが、その濁した訳というのは「神はいないが、いると思いたい人間がいる」と簡単に割り切れないものがあるからです。
僕は「神はいない」と言って、神社にお参りする人や教会に行く人たちを決して蔑んだりはしません。
それはなぜかと言うと前回の「霊性」による体験のところで
1.恐れと畏怖、諦めにも似たような感じに襲われる
2.その存在が自分を活かしてくれているのではないかという思い
の2点の感覚があるといいましたが、
この体験にそれらの人びとは宗教的儀式によって応えようとしているからです。
私たちはお互い「活かしあっている」
これはつまりどういうことかと言うと、これは日本人だけで仏教的かもしれませんが、この体験による感覚は得体の知れない実体が無いものですが、「何か僕たちを超えるものが、僕たちを包み、活かしてくれて、とても有難い。でも、それが何だか解らない」からです。
それは、何だか解らない、見えないから森羅万象を受け入れ、「包み、活かしてくれる」ものに対して感謝しようという気持ちが根底にあるからです。
日本人は、その感謝する対象を自分の周り全てに適用しました。何故なら、先ほど申しましたように、それは実体が見えないので誰が自分を「包み、活かしてくれている」か解らないからです。それは母親・父親・ご先祖様かもしれないし木や山や川・海かもしれないと。
ですから日本人は他人に迷惑をかけてしまっても「お互い様」といって許したり、何もしていないのに「お蔭様で」と言ったりするのです。つまり「あなたの存在が私を活かしてくれている」という前提で他人と関わっているのです。
これは人間同士とは限りません。代表的なのは、食事の時の「いただきます」です。これは「私を活かすために、あなたをいただかせてもらいます」と了解を得ているのです。
殺生は自殺行為
では、「恐れと畏怖」の感覚が無いとどうなってしまうのでしょうか?これでは人間が傲慢になってしまい。平気で自己の欲求のあるがままに殺生をしてしまうことになります。他人を傷つける、殺してしまう、これは自分を活かしてくれているものを無くしてしまうことにつながります。ということは巡りめぐって自分を殺すことにつながります。
また、「包まれている、活かされている」という感覚がないとどうなるでしょうか?これは自分の存在を認めないということにつながり、劣等感を持ち自分を殺してしまうか、逆上して他人を殺してしまうかでしょう。他人を殺してしまうということは先ほど申しました。
つまり、二つに共通するのはつまり「自殺行為」ということです。
「徳」「善」とは
「徳」とか「善」というのは「お互いを活かす」行為または考えのこというのではないでしょうか。僕はプラトン関連の本を読みましたが、プラトンの言う「最高善」というのが全然理解できませんでした。だからと言ってこういう考えに至ったわけではありませんが、「霊性」の感覚から立脚するとこのように思えてならないのです。
「有難う」と伝えたい
「有難う」とは「有り難い」、「有りえないこと」。つまり「あなたは私に有りえないことをして下さっている」ということです。僕はこの「有りえない」というのは「霊性の様なこと」と思いますが、どうでしょうか?
私たちは感謝の気持ちを生きている他人には伝わるように言えますが、活かしてくださり亡くなってもうこの世にいないご先祖様に対してはどうでしょうか。それにはご先祖様が生きた証をお墓や仏壇という形で残し、それに向かい感謝するのが一般的だと思います。が、ここで私たちは、ふと不安に思ったのでしょう「本当に伝わっているのだろうか」とそこで感謝をしているところを確認してもらう為にお坊さんや神父・牧師という第三者を交えて、儀式を執り行うと確実で安心だと。そうして、いざ自分が死んだときにこのように感謝して祈ってくれる人がいるからこそ他人を活かして、他人を活かしている自分というものを活かそうとするのです。
このことから、第三者として交わる聖職者の方々は儀式の祈祷料・介在料としてお金を受け取るのはあたりまえのことですが、親族である当事者の感謝の念が伝わるか伝わらないか不安なところにつけ込んで、「このような仏壇ではご先祖様は浮かばれません」とかと言って親族に身の丈以上の仏壇やお墓を買わせたり、聖職者が金品を要求するのはこれは間違いです。
重要なのは、あなたがご先祖に感謝する気持ちがあるということ自分自身に確認(自覚)し、安心を得ることなのですから。
以上のことは、「霊性」がお互いに共通認識としてあれば、とても話は簡単なのですが、やはり「霊性」は実体がない得体の知れないもので、いつこの様な体験を得られるのか解りません。実体や得体の知れないものを「何だか解らないが、解れ」と言ったら、それはオカルトの領域です。ですから私たちの祖先はお互いを活かし、活かされるために、「霊性」というものを概念化させ、共通認識できる体系としての「宗教」を創ったのです。
ですから、僕が「神はいない、いると思いたい人間がいる」でも「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~」というのはこのことです。
前回も引用しましたが、鈴木大拙氏の「日本的霊性(岩波文庫)」では、
と言っています。
また、阿満利麿氏は「日本人はなぜ無宗教なのか(ちくま文庫)」の中で
また、同書で
と自分が思ったことをあれこれと書きましたが、文体的に変な所とか、いやに断定的な所とか、飛躍しているところとかあるのは僕がまとめ切れていないからで、ここは反省するところですが、書く勢いまで削いで理論的にまとめあげられるかというと自信がありません。とにかく僕の思考はここまでで、将来この考えを深めることはあっても、大幅に変えるということは無いでしょう。しかし、僕がこういう考えだからと他人に押し付けたりはしません。僕はあることを調べていく内にどうしても宗教という避けて通ることが出来ず、ちょっとマクロ的に調べたに過ぎませんのですから、
まぁ、こんなヤツいるんだ程度に読んでいただければ幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝
僕は「神はいない」と言って、神社にお参りする人や教会に行く人たちを決して蔑んだりはしません。
それはなぜかと言うと前回の「霊性」による体験のところで
1.恐れと畏怖、諦めにも似たような感じに襲われる
2.その存在が自分を活かしてくれているのではないかという思い
の2点の感覚があるといいましたが、
この体験にそれらの人びとは宗教的儀式によって応えようとしているからです。
私たちはお互い「活かしあっている」
これはつまりどういうことかと言うと、これは日本人だけで仏教的かもしれませんが、この体験による感覚は得体の知れない実体が無いものですが、「何か僕たちを超えるものが、僕たちを包み、活かしてくれて、とても有難い。でも、それが何だか解らない」からです。
それは、何だか解らない、見えないから森羅万象を受け入れ、「包み、活かしてくれる」ものに対して感謝しようという気持ちが根底にあるからです。
日本人は、その感謝する対象を自分の周り全てに適用しました。何故なら、先ほど申しましたように、それは実体が見えないので誰が自分を「包み、活かしてくれている」か解らないからです。それは母親・父親・ご先祖様かもしれないし木や山や川・海かもしれないと。
ですから日本人は他人に迷惑をかけてしまっても「お互い様」といって許したり、何もしていないのに「お蔭様で」と言ったりするのです。つまり「あなたの存在が私を活かしてくれている」という前提で他人と関わっているのです。
これは人間同士とは限りません。代表的なのは、食事の時の「いただきます」です。これは「私を活かすために、あなたをいただかせてもらいます」と了解を得ているのです。
殺生は自殺行為
では、「恐れと畏怖」の感覚が無いとどうなってしまうのでしょうか?これでは人間が傲慢になってしまい。平気で自己の欲求のあるがままに殺生をしてしまうことになります。他人を傷つける、殺してしまう、これは自分を活かしてくれているものを無くしてしまうことにつながります。ということは巡りめぐって自分を殺すことにつながります。
また、「包まれている、活かされている」という感覚がないとどうなるでしょうか?これは自分の存在を認めないということにつながり、劣等感を持ち自分を殺してしまうか、逆上して他人を殺してしまうかでしょう。他人を殺してしまうということは先ほど申しました。
つまり、二つに共通するのはつまり「自殺行為」ということです。
「徳」「善」とは
「徳」とか「善」というのは「お互いを活かす」行為または考えのこというのではないでしょうか。僕はプラトン関連の本を読みましたが、プラトンの言う「最高善」というのが全然理解できませんでした。だからと言ってこういう考えに至ったわけではありませんが、「霊性」の感覚から立脚するとこのように思えてならないのです。
「有難う」と伝えたい
「有難う」とは「有り難い」、「有りえないこと」。つまり「あなたは私に有りえないことをして下さっている」ということです。僕はこの「有りえない」というのは「霊性の様なこと」と思いますが、どうでしょうか?
私たちは感謝の気持ちを生きている他人には伝わるように言えますが、活かしてくださり亡くなってもうこの世にいないご先祖様に対してはどうでしょうか。それにはご先祖様が生きた証をお墓や仏壇という形で残し、それに向かい感謝するのが一般的だと思います。が、ここで私たちは、ふと不安に思ったのでしょう「本当に伝わっているのだろうか」とそこで感謝をしているところを確認してもらう為にお坊さんや神父・牧師という第三者を交えて、儀式を執り行うと確実で安心だと。そうして、いざ自分が死んだときにこのように感謝して祈ってくれる人がいるからこそ他人を活かして、他人を活かしている自分というものを活かそうとするのです。
このことから、第三者として交わる聖職者の方々は儀式の祈祷料・介在料としてお金を受け取るのはあたりまえのことですが、親族である当事者の感謝の念が伝わるか伝わらないか不安なところにつけ込んで、「このような仏壇ではご先祖様は浮かばれません」とかと言って親族に身の丈以上の仏壇やお墓を買わせたり、聖職者が金品を要求するのはこれは間違いです。
重要なのは、あなたがご先祖に感謝する気持ちがあるということ自分自身に確認(自覚)し、安心を得ることなのですから。
以上のことは、「霊性」がお互いに共通認識としてあれば、とても話は簡単なのですが、やはり「霊性」は実体がない得体の知れないもので、いつこの様な体験を得られるのか解りません。実体や得体の知れないものを「何だか解らないが、解れ」と言ったら、それはオカルトの領域です。ですから私たちの祖先はお互いを活かし、活かされるために、「霊性」というものを概念化させ、共通認識できる体系としての「宗教」を創ったのです。
ですから、僕が「神はいない、いると思いたい人間がいる」でも「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~」というのはこのことです。
前回も引用しましたが、鈴木大拙氏の「日本的霊性(岩波文庫)」では、
| 宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏(しっこく)に悩むとき、みずからの冷静に蝕着する時節があると、対立相克の悶えは自然に融消し去るのである。これを本当の意味で宗教という。 |
| そんならその霊性的直覚なるものはどうして出来るかというに、それは人間精神の歴史的発展の途上、自然に経験せられと言うよりほかあるまい。 |
また、阿満利麿氏は「日本人はなぜ無宗教なのか(ちくま文庫)」の中で
| いずれにせよ、死者を「ホトケ」と称するのは、仏教本来の教えによるというよりも、仏教以前の日本の「自然宗教」の考えが深くかかわっているといえよう。結論をいってしまえば、「ホトケ」とは、伝統的な「カミ」の一種なのである。 |
| 日本人の間に「自然宗教」が根強く生きているからだというしかない。「葬式仏教」とは、この「自然宗教」との妥協の産物なのである。 |
| 民衆の側も、自分たちの「自然宗教」の足らないところを補うものが、仏教、とくにその儀礼にあたると考えたからこそ、仏教儀礼を受け入れたのである。ともかくも日本人の多くは、「葬式仏教」によって、死後に安心できるようになったのである。 |
まぁ、こんなヤツいるんだ程度に読んでいただければ幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝
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はじめまして
私たちはインドネシアの大学で日本語を勉強している学生です。
私たちは授業で日本で自殺した人の霊について調べています。
そこでアゼさんにお聞きしたいことがあります。
インタネットから記事によると自殺した人の霊は地縛霊になり。死んだその場所から動けないなる。それは本当ですか。アゼさんはどう思いますか。
そして自殺した人の霊は死んだその場所からよく「あの世でいしょうになろう」と言った。本当ですか。そのことについてアゼさんはどう思いますか。
私たちのせんせい考えではなくなった日本人は輪廻ができる。本当ですか。どう思いますか。自殺した人はどう思いますか。輪廻ができますか。
おいそがしいは思いますがどうぞよろしくお願いします。
サムライグループ
マハッマドユスフ
シルヴィアバルス
投稿 サムライ | 2008年4月18日 (金) 00時35分
私は日本語しが出来ませんので、日本語で失礼をします。また、私は宗教家でも学者ではありませんので、私の発言が絶対ではないと思ってください。
いわゆる肉体が死んで魂が分離し、姿を現した状態を一般的には「霊」と呼んでいますが、私が今回言っている「霊性」とは、人間の無意識が何かを感じ、それが体にある種の感覚が伝わることです。漢字で「霊」とついて、英語で同じspiritualですから混同されやすいのですが、「霊」と「霊性」は全く別のものと考えています。
魂が分離した状態の「霊」の存在は、日本では不確定で、私では判断いたしかねます。
ですので、
1つ目のご質問の「自縛霊は存在するか?」は
不確定で、私はその自縛霊に会ったことがないので判断できません。ですので2つ目の質問の回答も控えさせていただきます。
3つ目のご質問の「輪廻転生」ですが、日本は一般的には仏教が主な宗教となっていますが、その根底に自然信仰(animism)が残っていますので、純粋に仏教と言えないのが実状です。Carl Gustav Jungは人間が成長する過程で心の内面で死と再生を繰り返すといっています。東洋の昔の人々は、そのことを経験から知っていて、春に草が土から芽生え、冬に枯れてしまい、また、春になったら土から芽生えるという現象と自分たちを重ね合わせて、肉体もまた再生すると考えたのでしょう。それが現世での行いが来世につながるという宗教の戒めとなったのではないかと思います。つまり私たちに求められているのは現世での「行い」です。簡単に言えば、今生きている時に、「善」を行えば子孫も幸せになれるということだちと思います。
ですので、その人が死んで生まれ変わるというのは喩え話であって、実際には無いと思っています。
最後に、確証できる「実体する存在」と心の中の「意識の存在」とは区別しなければなりません。自分の思いが強すぎ、心の意識が強くなって実体と意識が混同してしまうのは大変危険だと思っています。
現に、それは宗教戦争という形で表れているのではないでしょうか?
私の日本語は翻訳しにくいと思いますが、みなさんの勉強にお役に立てれば幸いです。頑張ってください。それではごきげんよう。
投稿 ふぉすたらんど管理人 | 2008年4月18日 (金) 02時53分