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2008年4月

タフマンのラベル

ヤクルトのタフマンのラベルがいつの間にか変わってた。

前々から思ってたんだけど、旧ラベルは完全にアレだよね。
アレを逆さにしたイメージだよね。
やはり下向きだから、バイアグラよろしく、これを飲んで一気になんて、深層意識に働きかけるあからさまなデザインで狙ったんでしょうか?
しかし、その時の社内会議とかバイヤーさんへの説明とかどうしたんだろ?
「意味深ですよねぇ~」
「あっははは、でしょ」
「コイツぅ~」
てな感じで、それでそれはウケてたんだろうか?
これでもう、街中でこのラベルを拝めなくなるのは非常に残念。

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聖火リレーが見れないよ

ある意味、今期のオリンピックの日本のメインイベントである26日早朝の長野のエクストリーム聖火リレーなのですが、家でゆっくりネット&テレビでオチしたかったのですが、その日のその時間は、僕は車上で情報が入らないのです。
う~ん、残念。
後でネットで顛末を確認することになりそうです。
しかし、今期のオリンピックは違う意味の盛り上がりを見せています。
聖火リレーがここまで注目されたオリンピックはなかったはず、支那がいい気になっているのか、それとも内情がボロボロで強がってみせているのか本心はわかりませんが、、国連常任理事国が蓋をしていた朝鮮戦争後の一つの矛盾が顕在化されて、蓋が外れそうになってきちゃってるというのが、実情でしょう。
「貝と羊の中国人 加藤 徹著 新潮社169」の言うように支那は流民が作った国で、流民はテリトリーが曖昧といったところで国際社会がそれを許さないでしょう。かつて日本は、欧米が第一次世界大戦の経験で意識変化が起きたのを見逃し、帝国主義を推し進め対米戦争そして敗戦へと至ってしまったが、支那もそのうち国際社会から仕打ちを受けるだろうか?それとも内部崩壊するのだろうか?予断を許さないのは間違いないでしょう。
今のところ、国際社会に「対等」とか「友好」とは幻想にすぎません。先にやったもん勝ち、流れが変われば国際社会のルールも変わる。ルールが変わったことに気づかなければ制裁を受け、それがいやならルールを作る方にまわるしかない、これは支那に限らず我が日本にも言えたことです。母性社会日本が父性社会の欧米とわたりあうには、父性と母性をうまく切り替えていくか、母性社会で押し通すしかない。日本の未来も厳しいのです。
で、しかしご年配の方の支那に対する一種の憧れのようなものはなんでしょうか?
広くてスケールがデカイから?それとも思想的なもの?大陸に憧れる?
昔の支那と共産党一党独裁の今とでは全然違うのだけれどもそのあたりちゃんと現実を見ているのかな?
26日はその現実を身を持って知ることになりそうだけれど、あーあ、僕、旅行で見れないんだよ。
本当に残念。

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[欲望」と資本主義 ~終わりなき拡張の論理~を読んで

[欲望」と資本主義 ~終わりなき拡張の論理~
佐伯 啓思 著
「欲望」と資本主義
ちょと「欲望」とは何ぞや?
とういうことでいろいろ調べているうちに出合った本です。
「欲望」の「欲」って、、よく「欲ばり」とはいわれるのでネガティブに捉えられることもあるのだけれども、
ポジティブには「意欲」ということばもあります。
基本的には、対象とする「人物」や「物」に「差異」が認められ、その差が大きければ大きいほど「欲望」が高まるといわれていますが、僕みたいな低収入の人がロールス・ロイスが欲しいとか思いませんので、その人の経済状態とか、価値観に社会情勢なのどが影響して、ある所から「差異」があっても急速に「欲望」が無くなるものと思います。
その辺りの話は機会を改めて行いたいと思います。

本書は、今まで「資本主義」というと「社会主義」との対で語られることが多かったのですが、冷戦終結でそういった体制ではなく「資本主義」そのものを、「人間の欲望の拡張という観点から資本主義を理解してみたい」「資本主義とは人間の活動のあくまで一部、重要ではあるがひとつの局面なのである。」という観点からかかれています。
資本主義といったらマルクス・レーニン主義が必ずでて絡めて語られていたわけですが、この本はあくまで「資本主義的な活動」ということに焦点をあてた内容となっています。最初は単に「モノ」を所有する喜び(快感)だけで済んでいたものが、他人と違うモノ、自分らしいモノへと果てしなく拡大していく欲求はバーチャル・リアリティなどの技術の発展で、シミュレーションによって「快感」だけが得られるかもしれない。そうすると、モノを生産しない「シミュレーション資本主義」というものが考えることさえできるであろう。技術のフロンティア開拓は盛んに行われているが「大衆化」とは結びつかない、技術のフロンティアと欲望のフロンティアが乖離し始めているからだ。産業技術が独占してきた「近代」を脱して、もう一度、文化や知識の領域に取り戻す可能性が開かれたのである。欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになったのではないかと思う。と筆者は閉めています。

これを読んで、「モノを所有することで他の人と同一化したい」「モノを所有することで他の人と差別化したい」という欲望は人間に常に付きまとうものですが、その欲望を快感にし、切り出して浸ることは人間にはできません。なぜなら人間は肉体を持っているからです。また、テレビを観る、音楽を聴くといった受身だけでも人間の欲求は満足しません。一昔前に流行ったバーチャル・リアリティも一般にはあまり聞かなくなりましたが、アニメ「電脳コイル」のようにメガネをかけただけで、他人とコミュニケーションでき、仮想のものを触覚で感じる時代が確かに来るでしょう。そのような技術で一時的にも欲求・快感を消化できたとき、果してリアルに何が残されるのでしょうか?
そして、その残されたリアルを見た時に人々は何を感じるのだろうか?
自分の感情とモノや他人の差の距離は固定されたものではなく、相対的なもので絶えず揺れ動いている。その揺れ動くことが不安に感じるという人が近年では多いように思えてなりません。それは今までの資本主義が「お金」と「モノ」が主体だったからで、自身の「個」があまりにもあざなりになっていたからではないでしょか?
今、そのおざなりになっていた「個」が一気に噴出してきたような気がします。「ブログ」「youtube」「ニコニコ動画」「初音ミク」などの既存のメディアを脅かす自分の発表の場ができたからです。そこには他者からリアルに直接フィードバックされ、「個」をじかに確認できるシステムがあります。この「個」を拡大生産させるシステムに人々は資本・資源を投入していく新たな「資本主義」が、筆者のいう「欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになった」ことではないでしょうか?
この「個」を拡大生産した後のことは、今後の私たちの自身の課題になるでしょう。

で無学な僕には、本書のタイトルの「欲望」とが「資本主義」から少しはずれて、なぜ、中世から近世にかけて西欧諸国が植民地主義に走ったのかが本書に書かれていたて気になったので参考程度にご紹介します。

西欧では中世から封建社会で王侯貴族が権力を握り、欲望のかぎり欲しいもの手に入れていたのは、あえて言う必要はありませんが、その欲望が高まりもっと大きい「差異」を入れようと他の文化圏との交易を始めたわけです。
具体的には中東の「ペルシャ絨毯」、インドの「綿」、東南アジアの「香料」、中国の「陶器」などです。
それらは始め、金と取引をして購入していたわけですが、始めのうちは王侯貴族の一部の人が買う程度どのものが下層に広まって行き、ある種のオリエンタルブームが起きて輸入過多になってきたわけです。
で、必然に金がなくなる借金がかさむ。貿易不均衡状態になったということでしょうか。
でそれではたまらないと西欧の人は、それでは貿易している国を征服してしまえばいいいと思い、それらを植民地にしたのです。要はそうすることで借金を踏み倒したとでもいいましょうか。
そこでアメリカは完全に出遅れましが、国内に膨大な土地があるので、奴隷を買って国内で綿を栽培しようとして始まったのが、奴隷貿易だということになるのでしょう。
ここで、植民地化するにも奴隷貿易する際にも、その土地の人々を使いたいように使ったわけですが、その大義名分に使われたのか「異教徒だから」です。つまり彼らは「キリスト教徒では無い」と、イエス・キリストの教えこそ最高で、その教えを未開の地の人々に教え広める必要がある。抵抗するものは殺ってしまえとばかりに行ったのです。
そして東へ、東へと彼ら西洋人は拡大を進めて行ったわけですが、中国に来た辺りからフランス革命などで民主主義が起こり、封建主義が衰退したのです。もし、このままの勢いが続けば日本も西欧の植民地になっていたかもしれませんが、しかし日本では科学は発達しなかったものの、商業文化は発達して、そのための寺子屋もあったりして識字率は高く、他の地域から突出していたので、日本を完全に植民地化するのはかなり苦労したことでしょう。そういうことを考えると日本ってラッキーな国だな。とあらためて思います。

結局、この本で何を思ったのかといいますと、
キリスト教は、これらの歴史から鑑みて内省すべきではないかと
イエスが直にやったのではないが、キリスト教にそういう解釈ができる部分があったからこそ、大義名分に利用され世界をぐちゃぐちゃにしたのですから。

余談ですが、「聖パウロ」とか「聖」がつくと、何だか有り難味があるような気になりますが、この辺りは日本人は肩書きに弱いので分別して考える必要があるかと、つまりキリスト教徒じゃない人にとってはどうでもいい話で「部長」「課長」はそちら組織の話であって、「聖」がついても俺らの「聖」じゃねえよ。
ということです。

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坂本真綾 「トライアングラー」

トライアングラー 坂本真綾
坂本真綾さんのニューシングル「トライアングラー」が明日発売となりますが、Amazonで注文した僕は、はっきり言ってAmazonのことだから明日23日発送で翌日の24日に届くのだろうと思っていたら、なんと、なんと本日22日に到着しました。
ということで結果、フライングゲットとなりました。
収録曲は、現在放映されているアニメ「マクロスFrontier」のオープニング・テーマで約4年半ぶりの菅野よう子さんの曲「トライアングラー」とカップリングは坂本真綾さんが作詞、高田みち子さん作曲の「ことみち」です。
「トライアングラー」に関しては今更、言うまでもありませんが、カップリングの「ことみち」は今回初めて聴きました。どちらかというとスローメローな感じのゆったりとした曲です。シングルでは無くアルバムの最終曲に入れるのような曲です。歌詞の「感情~」のところがいいですね。気に入りました。

で、パッケージにはキャンペーンのご案内が、購入者全員に坂本真綾さんが描いた”携帯待ちうけ”と抽選でスペシャルグッズをプレゼントしてくれるそうです。(要:ヒミツの番号)


で、最後にピンクの三角形のプラスチックが入っているのですが(上の写真の真ん中のやつ)、これは一体何に使うのでしょうか?
パッケージには「ピンクの三角形」としか書いてありません????
謎だ!

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ユニーで電子マネーが始まってた

電子マネー

以前から、ユニーで電子マネーのリーダ/ライターが設置されていたのだけれども
先週あたりから運用が開始されていたみたいです。
同じグループのサークルK・サンクスではかなり前から使用できたのですが、
やっとユニーでも使用できるようになったのです。
使用できるのはJCBのQuic Pay、VISAのVisa Touch(NICOSのSmart plus)とEdyです。
スーパー・量販店でのクレジットカード利用は、生鮮食料品だとサインレスでカードが使えるのですが、
衣料品とかではサインが必要でした。
これでユニーもサインレスで便利になるのですが、欲を言うとSUICA(PASMO)も利用できるようにして欲しかった。
UCSさん、是非ともお願いします。

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ドコモがロゴマークを変えた

NTTドコモが、「手のひらに、明日をのせて」ということで
新ロゴマークを策定した。
長いこと使用していた、以前のロゴマークは、NTTのマークとDocomoの文字を絡めて、
NTTのマークは、青いラインがグリーンの円で赤いラインに変わるというもので、
青いラインはNTTの固定電話を意識していて、赤いラインは移動体通信を表しているのだろう。
グリーンの円は両者を変換するという意味だと思うのだが、
意味づけが先行しすぎて煩雑で、他のキャリアに比べてまとまりが感じられない。
それが赤一色となって、シンプルになった。「赤」は挑戦とか情熱を意味する色で、
現在、一人負けのドコモが起死回生を狙ってのことだろうが、書体が何だか丸っこく、
一般の人にはとっつき易いのだろうが、逆に先進性は感じられなくなった。
なんか引っかかりがないんだよね。
まぁ、ドコモのことだからCMなどの広告の投入量は多いので定着するのは早いかもしれないが、
一般的ににロゴマークは10年から15年を目安に変えていくのだけれども、果してこのマークが飽きられずに長く持ちこたえるだろうか?

で、SOFTBANKなんだけれども、あれを最初に見たときはっきり言って異様に感じた。
深夜、人気のいない駅前でSOFTBANKのショップの白地に黒の文字の行灯の看板を見たとき、「葬式かよっ!」って思ったですよ。
あの日本人をバカにしたようなCMも好きになれないしね。お父さんが人間じゃなくて、お兄さんは外国人ですか?
まぁ、国力を奪うには、男を蔑んで、まず男性の生殖機能を低下させることですね。
ふざけんな!!

で、僕は暫くはドコモ一択です。Fはドコモしかありせんから。

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2008年春期アニメ

2008年春期のアニメは良い作品が目白押しですね。
僕の友達は「コードギアス 反逆のルルーシュR2」を観ると言ってるのですが、前期を見ていない僕は
●図書館戦争
●RD潜脳調査室
●マクロスF
●カイバ
●ファイアボール
を選びました。

湯浅監督のカイバは異色作品です。1話を観たのですが、よく解りません。この後の展開で徐々に解ってくるのではないでしょうか。
で、カイバは脳の海馬ですよね。ねっ?!
wikiで海馬の所を見てみたのですが、難しすぎて頭が痛くなりました。
キャラクターは手塚治虫ようなタッチで色使いが独特です。
また、加賀美セイラさんの歌うOPとEDの楽曲は良いです。購入決定かな?

次にファイアボールです。ディズニーで日本のCG作品ですが、これが短い!
なんと90秒!!
これは、一部ネットで初音ミクのパクリではないかと話題になって(あくまで一部でね)、
気になって先行の第7話が配信されていて見たところ面白そうだったので観たんですが、
5分って聞いていたのに90秒かよ!
まぁこれはシナリオというかセリフとテンポ命のアニメですね。
因みにファイアボールって英辞郎で調べら「速球」という意味があるそうで、
変に納得しました。
しかし、ディズニーってタイトル付けるのが上手いですね。
この前、劇場で見た「魔法にかけられて」の原題は「ENCHANTED」。
この単語は「魔法にかけられる」と「魅せられる」の両方の意味があるそうです。
(「英辞郎」調べ)
う~ん、これだったら原題の方がいいですね。
日本人にはなじみのない単語だけど・・・。

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ひなぎく純真女学園 ふくやまけいこ

ひなぎく純真女学園 ふくやまけいこ
今回はマンガです。はっきり言いまして比較的マイナーな漫画家さんです。
ふくやまけいこさんと言っても多くの方はご存じないでしょうが、僕にとっては、目から鱗鱗が落ちるほどのインパクトを与えてくれた漫画家さんです。
僕は社会人になるまで、小さい頃からジャンプ派でした。少しの間ですがチャンピオンも読んでいて「がきデカ」「マカロニほうれん荘」とチャンピオン全盛時代も経験していますが、基本的にジャンプ。そして必然的にヤングジャンプにステップアップとして行き、突如週刊マンガを読むのを止めてしまったのですが、そのきっかけを作ったのが”ふくやまけいこ”さんなのです。
僕とふくやまさんの作品の出会いはマンガ専門誌「ふーじょん ぷろだくと」に掲載されていた。「地下鉄のフォール」でした。
荒削りだけと純粋なタッチとそのハートウォーミングなお話にやられてしまったのです。
で誌面の隅にこうありました。「アニドウから出ている個人集「ふくやまジックブック」(1,000円です。フリスペにも置いてあるからよろしくね)と
そこで僕は焦って、休日に新宿のフリスペまで行ったのですが、案の定売れ切れ、仕方なくトボトボと帰宅したのを覚えています。
そして暫くて「リュウ」連載の「エリス&アメリアシリーズ ゼリービーンズ」からふくやま先生の作品を集めていきましたが、未だに聖典である「ふくやまジックブック」は手に入れられていません。(プレミアが付いて高いので)

それから僕のマンガの見方は変わりました。そしてある日、ヤングジャンプの「のぞみウォッチング」を読んでいて、ヒロインの水着サービスカットを見たとき、「何か読まされているぞ」と感じたのです。
何か「おまえらの欲求は解っている、エロとグロとナンセンス、バイオレンスが見れれば満足なんだろっ」と、
そこから僕は、急激にジャンプに対して醒めていったのです。
対してふくやま先生の作品には商業志向では無い何かを感じたのですが、やはり魅力は人柄が作品に滲みでているというところです。一気にファンになりました。

あの出会いから27年という月日が流れて、流石の僕もマンガ離れが進みましたが、やはり気になってちょこちょこ「まんがの森」で開催された原画展を見たりとふくやま先生の作品だけは、気にかけていました。
そして僕の気が緩んだ頃、ふくやま先生の新作が出ているとの情報が、で早速購入しました。

で、タイトルは「ひなぎく純真女学園」 4コママンガです。
って、何ぃ~百合! 百合ですか…。
まぁ、以前「ジュネ」に描いていた方のことだ、驚くに値しません。
が、しかしやはりふくやま先生、「エロス」がない。これも人柄なんですね。いい意味でも悪い意味でも。

ただ、ところどころ笑えます。
「U電の生DVD-Rを50枚スピンドル」とか、
ふくやま先生・・・。

で気になったところは、少女マンガで頻繁に登場する得体の知れないバラとか綿ぽこ「不思議な泡状のもの」(「マンガはなぜ面白いか ~その表現と文法~」夏目房之介 NHK出版)は、そうか「心象イメージ」なのかと勉強になりました。しかし、バラとかはなんとなく解るのですが、その心象イメージが具体的な形をもっていないとするならば、これはユングの言う元型に近いものではないかと考えるのは、考えすぎでしょうか?考えすぎですね。

最後に、いつも本はAmazonでポイントを稼ぐために買うのですが、これを買ったらAmazonからトップページで何を薦められるかたまったもんじゃありません。まさにKONOZAMAです。
ですので今回はマンガ専門店で購入させていただきました。
でふくやま先生はご結婚されたのでしょうか?そのような情報は全然検索エンジンに引っ掛からないのですか・・・。

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ウェルカムボード製作記 その2

前回はスチレンペーパーで文字を切り抜き、塗装までをご紹介しました。

ここでいきなりなんですが、前回の補足をさせてください。
スチレンペーパーで文字を切り抜く際に、文字のデザインをした紙を貼って切り抜くということをご説明しましたが、デザインカッターで紙を切ると同時にスチレンペーパーに筋をつけて、まず文字のまわりの余分なところの紙を剥がします。そして残った文字の形にそって発泡スチロールカッターで文字を切り抜き、完全に切り抜いた後、文字の紙を剥がします。
これは、発泡スチロールカッターが熱で切っていくため、力むと切り過ぎて文字の中まで切れて失敗してしまうからで、紙を滑り止めに紙の形に添って切っていくと綺麗に切れるからです。

樹脂粘土で新郎新婦を作る。
はじめ、今回依頼された知人の新郎新婦からはイラストでと要望されたのですが、「平面だとどうもなぁ~」と模索していたところ「粘土」という案が浮かんできました。
はっきり言って僕、粘土は10年以上前仕事で紙粘土でレリーフ状のキャラクターを作って以来、さわっていません。しかもチョイスしたのが、樹脂粘土「Hearty」です。これは前回ご紹介したユザワヤさんで一個190円弱で購入しました。乾くととても軽く、また、意外と丈夫な粘土です。ただし、完成した後は、水気厳禁となります。

で、この樹脂粘土の予備知識もなく、コネコネしていればなんとなくできるだろうと挑戦をしてみました。

で結果はこれです。

ダメじゃん!
何これ、下手っぴ!


特に、向かって右の新郎はなんか「ちびまる子ちゃんのおじいさん」っぽくなってしまいました。
失敗の原因は、仕上がりイメージをしっかりと把握していなかったのと粘土の色の調合です。
この樹脂粘土「Hearty」は基本色しか売っていないので無い色は自分で調合することになります。
肌色でしたら白に極少量の赤と黄色、で、この時、新郎はちょっと色黒の顔にしようと茶色を混ぜたのが失敗でした。茶色を混ぜると黒ずんでしまい。僕が想像した「ねんどいろ初音ミク」風には程遠い結果となりました。
で気を取り直して作ったのがこれです。

仕上げにツヤ消しの水性の防水材を塗って完成です。
ずいぶん、イメージ変わったでしょ!

文字をペースに貼り付けるためのアタリをつける
前回、塗装した文字をベースに貼り付けます。
そのときに、トレーシングペーパーを使ってアタリをとっていきます。
まず、文字を切り抜いたサイズと同じ文字のデザインをトレーシングペーパーにプリントアウトします。
紙をあまり選ばない、インクジェットのプリンターはこの辺が便利ですね。但し、ジャムる時もあります。
そのプリントアウトしたトレーシングペーパーの裏面を濃い目の鉛筆で塗りつぶしていきます。
勘がいい方ならもうお解かりかもしれませんが、要は転写できる簡易カーボン用紙の代用をトレーシングペーパーで補っているわけです。

そしてベースに仮止めをして、上からなぞっていくと




このようにベースに文字のアタリが転写できます。
これで位置がずれてバランスが悪くなるということが回避されます。これは僕が高校時代から使っている方法です。

デコレーション
これでほぼ、重要なパーツができました。
次にデコレーションですが、これは既製品に頼りました。ゼロから作っても良いのですが、そんな技術僕にはありませんし、材料を道具を揃えるだけでも相当なお金がかかります。
また、ユザワヤさんで売っている造花は高級品で出来は大変よいのですが、その分お値段も張ります。
で、今回の購入にあたって利用したのが、庶民の味方?「ダイソー」です。でも、地元のダイソーはショボく、種類も少ないので町田のダイソーまで足を運んで調達したのがこれです。

実際購入したのは、
ケータイのデコレーションに使う、ラインストーン。
造花
白いリボン
です。

そして、各パーツ、デコレーションを一気に貼り付けます。

3ヵ所程、個人情報の所はボカシを入れさせていただきましたので
ご了承ください。

で最後に
樹脂粘土で作った新郎新婦を取り付けて完成です。

粘土の新郎新婦もこんな感じになりました。


今回は、依頼主からかなり時間を頂いたので、自分なりに試行錯誤、実験なんぞをしましたので、かなり時間が掛かってしまいましたが、なんとか無事に完成までこぎつけることができました。
ご結婚を予定されている方や、僕のようにウェルカムボードの作製を依頼された方がこれを見て、少しでもお役に立てたら幸いです。

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ウェルカムボード製作記 その1

知人が結婚するというので(決して自分ではない)、ウェルカムボードの製作を依頼されました。
今回はその製作過程をご紹介します。
まず、今、巷でどんなウェルカムボードが流行っているかネットとか東急ハンズで調査。
う~ん、色んなウェルカムボードがあるんですねぇ。
一部の話では等身大のパネルをウェルカムボードにしているカップルもあるとか(それは悪乗りしすぎでしょう)。
と、自分なりの幾つか良いウェルカムボードをポイントをまとめて見ました。
●華やかであること
●立体的なものが見栄えがする
●カップルの特徴を出したもの
●派手ではなく、清楚なもの
●文字はちゃんと読めるように

とまぁ、こんなもんでしょうか。

ます、フレーム
最初は、フレームも自作しようかと思いましたが、味のあるいい木が売っていないので額縁を使用することにしました。
購入は蒲田のユザワヤさんです。
大きさは四つ切、
購入価格は5,000円ちょっとしました。

因みに、蒲田はこのユザワヤさんのお店が点在しているのでちょっとした主婦のアキバ状態になっています。ユザワヤさんは本来、手芸、裁縫関係のお店ですが、画材も売っていますので僕はたまに利用します。

ベースに紙を貼る
次はベース、つまり下地です。
先に購入した額縁には板がついていましたのでそのまま白い紙を貼って作成してもよかったのですが、渋谷の画材屋さんで壁紙みたいなタイ製の紙が特売で売っていましたのでそれを板に木工用ボンドで貼って使用することにしました。

写真では解りにくくて申し訳ありませんが、
このような建材で使う壁のような紙です。

文字の作成
一般の既製品のウェルカムボードではゴールドやシルバーでエンボス加工したものに箔押しのものが沢山見受けられますが、
僕は、文字を立体にしよう考えました。
用意したもの
●厚さ5mmのスチレンペーパー
●発泡スチロール用塗料

道具として
●デザインカッター
●発泡スチロールカッター

●スプレーボンド
です。

1.文字のデザインを決める
文字を立体にするにはある程度の大きさがないと加工できません。また、ラフな感じにしたいのなら手書きの書体でも構わないのですが、清楚な感じにしたかったので既存の書体にしました。
ここでパソコンとプリンターが出てきます。
アプリケーションは、CorelDRAW Essential Edition 3です。僕は普段会社ではMacでAdobeのIllustrator CS2を使用してますが、個人では8万円もするソフトは購入できないので、Windowsで使えるDraw系のソフトということでCorelDRAW Essential Edition 3をチョイスしました。


2.文字の加工
まず、上記のCorelDRAW Essential Edition 3で作成した文字をプリントアウトします。
用紙はコピー用紙または薄い上質紙がいいでしょう。
薄い紙があったらなおのこといいのですが、
トレーシングペーパーはダメです。後でカッターで切るときに避けてしまいますので。
そしてプリントアウトした紙の裏に軽くスプレーボンドを吹き付け、スチレンペーパーに貼ります。注意する点はスプレーボンドを吹きつけ過ぎると後で紙がスチレンペーパーから剥がしにくくなるため軽く簡易止めという感じでスプレーボンドを使用すると点です。

次に、スチレンペーパーに貼った文字をデザインカッターで切っていきます。
切り方は、上の紙を切ると同時に一緒にスチレンペーパーにすじを付けるという感じで刃を入れていくというのがコツです。

ここでは文字を切り抜くのは上の紙だけでスチレンペーパーは切り抜きません。(職人技があればやってもかまわないのですが)

次に、文字を切りましたら、スチレンペーパーに貼った文字を剥がし、スチレンペーパーを文字の形に切っていきます。ここで便利な道具の登場です。
発泡スチロールカッター
これは電熱線で発泡材を切る道具です。東急ハンズで購入しました。おそらく大きいホームセンターなどで購入できるでしょう。

ここでのポイントは、電熱線とスチレンペーパーの側面が平行になるようにカットしていくことです。
斜めになってしまいますと、裏が表面がなくなってしまう可能性があるからです。

次に文字を塗装します。
うまく塗装するために裏側を爪楊枝で突き刺し、爪楊枝のもう反対側をダンボールに立てました。
そこに、発泡スチロール用塗料スプレーを吹きかけるのです。

塗装前


塗装後

とこうなります。後は、乾くのを待つだけとなります。

今回は、文字の製作までご紹介しましたが、次回は樹脂粘土で作製した新郎新婦のキャラクター、飾付けと一気に完成までご紹介します。

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クレカで「元型論」を買った

といっても、決済をクレジットカードで行ったという訳ではなくクレジットカードのポイントで5,000円分の図書カードをもらい、そのカードで「元型論」を購入したわけです。
いや、別にポイントでもらうのはクレジットカード会社のギフトカードでもいいんだけど、なんか使いにくいんだよなぁ~。(なぜかギフトカードでお願いしますというと店員の顔と態度がガラリと変わるんだよ)

元型論(林道義 訳 紀伊国屋書店)は税込5,880円という一般人には結構高い本です。
この手の本は、学生さんで大学の図書館にあるとかでしたら幸せなんですけど、こちとらサラリーマン、読書はもっぱら電車の中か寝る前のちょっとした時間、しかも気になるところは蛍光マーカーで印をつけるので図書館で借りるということもムリ(鉛筆では見落とす可能性があるので)なのです。
なので僕にとってはクレジットカードのポイントやAmazonのポイントは非常に貴重で、買い物するときは必ず、クレジットカードを使うか、もしくはそのクレジットカードに紐付けしてあるEdyが使えるお店で購入することを第一に考えます。(せこいと言えばせこいのですが、貧乏だからしょうがない)
で、クレジットカードのポイントで5,000円の図書券をもらうには、年間100万円をクレジットカードで決済する必要があります。(還元率0.5%の場合、実際、端数は切り捨てられるので100万円以上になりますが)
この100万円という数字を大金だなぁ~と思われる方もいっらっしゃると思います(なんだコイツ、100万しか使ってないのかという方もいると思います)が、
月にすると83,333円以上ということになります。
皆さん一ヶ月の家計はどのようになっていますいますでしょうか?
因みに私は

                                                                                                                                       
携帯電話通話料金5,000円
NHK・WOWOW5,000円
プロバイダの接続料4,000円
電気代5,000円
スーパー(食費・衣料)20,000円
コンビニ・ドラッグストア等のEdy決済30,000円

になります。
その他、家電量販店などでのパソコン関係の消耗品とかAmazonで購入したものを合わせるとそれだけで80,000円位になります。
また、通勤定期を密かにクレジットカードで購入していますのでこれだけでも年間120,000円
ですので大きい買い物をしなくても100万円は可能なのです。
しかも年間100万円以上クレジットカード決済すると翌年の還元率が0.5%から0.75%にアップしますので図書カードがもらえるハードルが低くなるわけです。
でも「クレジットカードはぁ~」とクレジットカードを使うことに抵抗がある方がいらっしゃいますが、クレジットカードであぶないのは「リボルビング払い」です。毎月の設定金額以上使用すると自動的に翌月の支払いになるというサービスですが、金利手数料も取られてしまうのでポイントのメリットはなくなってしまいます。また、あやしい店でスキミングされたりということもありますが、その辺りは自己責任と自己管理しなければなりません。
一般のクレジットカードでは、万が一不正使用があった場合の補償がありますので安心ですが…。

ただ、僕の使用しているクレジットカード、Edy決済はポイントにならなくなるとか、年間100万円以上決済した場合のポイントアップがなくなってしまうとか、今までのサービスが改悪になるとのウワサがあって果してどうなることやら…。ポイントをせこせこ貯めている貧乏人にはつらいご時勢になるなぁ。

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宮崎 駿 イメージボード集

宮崎 駿 イメージボード集

宮崎 駿がメジャーになり、その作品が一般に「ジブリ」ブランドとして広まってからジブリ作品を観なくなった。
正確には「千と千尋の神隠し」を最後に観ていない。
最大の理由は、観たいという欲求が湧かない、心が躍らないからだ。

思えは、僕が高校を卒業し、4月から社会人として出発する早春に「風の谷のナウシカ」が公開された。
もちろん僕は友人と連れ立って公開初日に早朝から劇場に他のアニメーションファンと共に並んだ。
劇場が開くのをまだかまだかと外で待っていたその時に、通りかかった婦人が
「何並んでるの?、映画?アニメ?」と言って通り過ぎたのを記憶している。
そう、その時は、スタジオジブリは存在していなかったし、宮崎 駿も一部アニメーションファンの間にしか知られていなかった。

それから暫くして、宮崎 駿は自らの長編アニメへの思いと人材育成からスタジオジブリを徳間書店資本で設立した。
スタジオジブリとしての最初の作品は「火垂るの墓」「となりのトトロ」の2本立てだったように思う。
そこから一般にも認知され、過去の作品が評価されてくるわけだが、次回作にも当然期待が高まるのである。
期待度が高まると配給会社と広告代理店が力を入れ、スポンサーを獲得し、嫌が上でも興行を成功させなければならなくなる。
商売であるから興行を成功させるのは当然であるが、今までのアニメーション映画はある程度「ドラえもん」とか一般に認知度の高いもの意外はパイが小さく、この程度というものがあったが、スポンサーなどの取り巻きが多くなった作品はそのそれ以上のものが要求されるようになってくる。その辺りからだ、僕がだんだんと宮崎 駿作品を観たいという欲求が湧かなくなってきたのは、それは今までの作品は子供の方だけを向いて作っていれば良かったわけだが、最近の作品は向く方向がスポンサー、親、子供と3者の間を行ったり、来たりして作っているように感じられたからだ。

はっきり言ってスポンサーなんて関連グッズが売れたり、自社商品の認知度が上げれば良かった訳で、それ以上は高望みしていなかったが、宮崎 駿とスタジオジブリに箔が付いた途端、作品のスポンサーになれば自社の企業イメージも上がると宮崎 駿とスタジオジブリを自社のアイデンティティの代理をさせようとした訳である。
つまり、スポンサー企業の見返りが「自社の商品」から「企業理念」にまでなってしまったのです。

また、親の方も宮崎 駿とスタジオジブリ箔が付いた途端、その作品を子供に見せることが、自らを「子育てしている親」と錯覚してしまった。言ってみれば日本中が宮崎ジブリブランドにおんぶしてしまった訳である。

てなわけで、大人の事情とか、親の傲慢っぷりとかに関係なく子供は子供で心躍る物語が観たいのである。
本当の良い作品とは、理屈などなく、理性的ではないが、親の目を通すことなく子供自身の目で観て面白いといえる作品だと河合隼雄著「昔話の深層」(講談社+α文庫)を読んで思った次第です。

でこの本「宮崎 駿 イメージボード集」です。
イメージボートとは作品のイメージとかアイデアを絵にあらわして、構想をより具体化したり、他のスタッフにイメージを把握してもらい共通認識を持ってもらう為のイラストです。
購入年月日は忘れましたが、神保町のコミック高岡で定価1,300円で他の本と一緒に積まれていたものを購入しました。
内容は、「ラピュタ」「ナウシカ」「トトロ」「もののけ姫」「パンダコパンダ」の構想段階イメージイラストが掲載されています。当時は徳間の縛りゆるかったのか講談社から出版されています。
特に興味を引くのはトトロの主人公です。映画では「サツキ」「メイ」の姉妹という設定ですが、構想段階ではちょうど二人の中間ぐらいの女の子が一人とう設定になっています。名前は「メイ」になってました。
今では、この本大変なプレミアが付いているそうでびっくりしています。
僕の宝物の一つです。

決して講談社の回し者ではありません。
「宮崎 駿」と「河合隼雄」、どっちも「はやお」なんですね。

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神は存在するか?2

前回では結論として「神はいないが、いると思いたい人間がいる」と言い、最後に「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~」とお茶を濁した形で終わりましたが、その濁した訳というのは「神はいないが、いると思いたい人間がいる」と簡単に割り切れないものがあるからです。

僕は「神はいない」と言って、神社にお参りする人や教会に行く人たちを決して蔑んだりはしません。
それはなぜかと言うと前回の「霊性」による体験のところで
1.恐れと畏怖、諦めにも似たような感じに襲われる
2.その存在が自分を活かしてくれているのではないかという思い

の2点の感覚があるといいましたが、
この体験にそれらの人びとは宗教的儀式によって応えようとしているからです。

私たちはお互い「活かしあっている」
これはつまりどういうことかと言うと、これは日本人だけで仏教的かもしれませんが、この体験による感覚は得体の知れない実体が無いものですが、「何か僕たちを超えるものが、僕たちを包み、活かしてくれて、とても有難い。でも、それが何だか解らない」からです。
それは、何だか解らない、見えないから森羅万象を受け入れ、「包み、活かしてくれる」ものに対して感謝しようという気持ちが根底にあるからです。
日本人は、その感謝する対象を自分の周り全てに適用しました。何故なら、先ほど申しましたように、それは実体が見えないので誰が自分を「包み、活かしてくれている」か解らないからです。それは母親・父親・ご先祖様かもしれないし木や山や川・海かもしれないと。
ですから日本人は他人に迷惑をかけてしまっても「お互い様」といって許したり、何もしていないのに「お蔭様で」と言ったりするのです。つまり「あなたの存在が私を活かしてくれている」という前提で他人と関わっているのです。
これは人間同士とは限りません。代表的なのは、食事の時の「いただきます」です。これは「私を活かすために、あなたをいただかせてもらいます」と了解を得ているのです。

殺生は自殺行為
では、「恐れと畏怖」の感覚が無いとどうなってしまうのでしょうか?これでは人間が傲慢になってしまい。平気で自己の欲求のあるがままに殺生をしてしまうことになります。他人を傷つける、殺してしまう、これは自分を活かしてくれているものを無くしてしまうことにつながります。ということは巡りめぐって自分を殺すことにつながります。
また、「包まれている、活かされている」という感覚がないとどうなるでしょうか?これは自分の存在を認めないということにつながり、劣等感を持ち自分を殺してしまうか、逆上して他人を殺してしまうかでしょう。他人を殺してしまうということは先ほど申しました。
つまり、二つに共通するのはつまり「自殺行為」ということです。

「徳」「善」とは
「徳」とか「善」というのは「お互いを活かす」行為または考えのこというのではないでしょうか。僕はプラトン関連の本を読みましたが、プラトンの言う「最高善」というのが全然理解できませんでした。だからと言ってこういう考えに至ったわけではありませんが、「霊性」の感覚から立脚するとこのように思えてならないのです。

「有難う」と伝えたい
「有難う」とは「有り難い」、「有りえないこと」。つまり「あなたは私に有りえないことをして下さっている」ということです。僕はこの「有りえない」というのは「霊性の様なこと」と思いますが、どうでしょうか?
私たちは感謝の気持ちを生きている他人には伝わるように言えますが、活かしてくださり亡くなってもうこの世にいないご先祖様に対してはどうでしょうか。それにはご先祖様が生きた証をお墓や仏壇という形で残し、それに向かい感謝するのが一般的だと思います。が、ここで私たちは、ふと不安に思ったのでしょう「本当に伝わっているのだろうか」とそこで感謝をしているところを確認してもらう為にお坊さんや神父・牧師という第三者を交えて、儀式を執り行うと確実で安心だと。そうして、いざ自分が死んだときにこのように感謝して祈ってくれる人がいるからこそ他人を活かして、他人を活かしている自分というものを活かそうとするのです。
このことから、第三者として交わる聖職者の方々は儀式の祈祷料・介在料としてお金を受け取るのはあたりまえのことですが、親族である当事者の感謝の念が伝わるか伝わらないか不安なところにつけ込んで、「このような仏壇ではご先祖様は浮かばれません」とかと言って親族に身の丈以上の仏壇やお墓を買わせたり、聖職者が金品を要求するのはこれは間違いです。
重要なのは、あなたがご先祖に感謝する気持ちがあるということ自分自身に確認(自覚)し、安心を得ることなのですから。

以上のことは、「霊性」がお互いに共通認識としてあれば、とても話は簡単なのですが、やはり「霊性」は実体がない得体の知れないもので、いつこの様な体験を得られるのか解りません。実体や得体の知れないものを「何だか解らないが、解れ」と言ったら、それはオカルトの領域です。ですから私たちの祖先はお互いを活かし、活かされるために、「霊性」というものを概念化させ、共通認識できる体系としての「宗教」を創ったのです。
ですから、僕が「神はいない、いると思いたい人間がいる」でも「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~」というのはこのことです。
前回も引用しましたが、鈴木大拙氏の「日本的霊性(岩波文庫)」では、
宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏(しっこく)に悩むとき、みずからの冷静に蝕着する時節があると、対立相克の悶えは自然に融消し去るのである。これを本当の意味で宗教という。

そんならその霊性的直覚なるものはどうして出来るかというに、それは人間精神の歴史的発展の途上、自然に経験せられと言うよりほかあるまい。
と言っています。
また、阿満利麿氏は「日本人はなぜ無宗教なのか(ちくま文庫)」の中で
いずれにせよ、死者を「ホトケ」と称するのは、仏教本来の教えによるというよりも、仏教以前の日本の「自然宗教」の考えが深くかかわっているといえよう。結論をいってしまえば、「ホトケ」とは、伝統的な「カミ」の一種なのである。
また、同書で
日本人の間に「自然宗教」が根強く生きているからだというしかない。「葬式仏教」とは、この「自然宗教」との妥協の産物なのである。

民衆の側も、自分たちの「自然宗教」の足らないところを補うものが、仏教、とくにその儀礼にあたると考えたからこそ、仏教儀礼を受け入れたのである。ともかくも日本人の多くは、「葬式仏教」によって、死後に安心できるようになったのである。
と自分が思ったことをあれこれと書きましたが、文体的に変な所とか、いやに断定的な所とか、飛躍しているところとかあるのは僕がまとめ切れていないからで、ここは反省するところですが、書く勢いまで削いで理論的にまとめあげられるかというと自信がありません。とにかく僕の思考はここまでで、将来この考えを深めることはあっても、大幅に変えるということは無いでしょう。しかし、僕がこういう考えだからと他人に押し付けたりはしません。僕はあることを調べていく内にどうしても宗教という避けて通ることが出来ず、ちょっとマクロ的に調べたに過ぎませんのですから、
まぁ、こんなヤツいるんだ程度に読んでいただければ幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝

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神は存在するか?

ある日、とあることを考えていたら、認知心理学やら果ては宗教に至るまで考えるようになったのですが、宗教と言っても個々にキリスト教とか仏教とかではなく、そもそも「宗教って何?」ということです。
まぁ、こんな疑問は誰でも成長する過程で思うことですし、このことで特定の宗教を信仰することにした人もいれば、なんとなくやり過ごしている方もいらっしゃるでしょう。因みに僕は後者の方です。
そして、宗教って何を言っているのか調べてみよう思いましたが、おのおの宗教にも宗派とかいろいろあって僕の脳ミソではハッキリ言って頭に入りません。
で、逆に考えて「宗教なんかいらないのでは無いか」と視点を変えて考えてみると、「じゃあ何で世界のあっちこっちに宗教があるのだろう?」となってしまいます。
そして調べて行くうちに出会ったのが、「霊性」という言葉です。言い換えるなら「宗教性」かな?

「霊性」をwikipediaなんかで調べてみると英語でスピリチュアルとあります。
霊性をカナカナでスピリチュアルというと途端に何か怪しくなると言うかなんというか…、何かと話題な○原さんの顔が浮かびますが…。
というのは、現在云われているスピリチュアルって何だか「先祖の魂」とか心霊的なものに偏っているように思えます。
ただ、僕は○原さんを否定しているわけではありません。以前、某衛星放送でやっていた○原さん監修のドラマをちょこっと見ましたが、間違ったことを言っているわけでなく、むしろ多くの方が○原さんの言葉に共感しているように良いことを沢山おっしゃっています。しかし、その手法がどうかということです。
○原さんは、その「心霊的なもの」「スピリチュアル」をバックボーンとしていますが、果して先祖の霊とかの「霊」的なものが実在するのかどうか議論の分かれるところでもあり確証がありません。また一部ウワサでは事前にスタッフが被験者から色々な情報をヒアリングしているとの話もあるので、その話が事実なら○原さんは自らの言葉を強化(被験者と視聴者に受け入れ易く)するためにもしかしたら「霊」というものを利用しているにすぎないといえなくも無いわけです。
つまり、手法を行うにあたっての偽りが問題となったのです。
しかし、ここで幾らスピリチュアルカウンセラーと云われる人たちを怪しいとか非難しても仕方がないのです。
多くの方が将来に対する不安や恐れ、特に「人間関係」「病気」「死」について悩み、救いを求めているのが実状で、その為に宗教を信仰している人がいるのも事実ですから。


「霊性」とは何か
では「霊性」とは何かと、いいますと
自我では超えられない「何か」を感じることです。

「何か」というと「随分曖昧じゃねぇか」と思うでしょう。
しかし、こんな経験は無いでしょうか?
●雄大な、またはきれいな自然に触れた時、または暗闇に中に入って行くときに突然とある種の何かに包まれるような抱擁感や不安感に襲われる体験
●何の過ちも不安もなにも無いのに突然不安感や焦燥感に襲われ、鳥肌が立ったという体験

その様な体験によって

1.恐れと畏怖、諦めにも似たような感じに襲われる
2.その存在が自分を活かしてくれているのではないかという思い

そのようなことを直感的に覚えることを「霊性」と呼んでいます。

ではなぜ?そのような感覚に襲われるかといいますと、鈴木大拙氏が「日本的霊性(岩波文庫)」で「霊性の意義」としてつぎのことをおっしゃっています。
精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何か見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない。それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならなぬ。これが霊性である。
これを読むと難しくてよく解らないので、僕はこのように解釈しました。
人類が誕生して知能を発達させていったわけですが、この発達過程で「観念」というものが生じました。これは物(物質)や現象に名前を付けて概念化させて行く過程で出来たものと思われますが、実態と概念・観念が次第に乖離(かいり)してしまったことがこの様な感覚を覚えることになっているのではないかと。
つまり木の実の「りんご」は「りんご」という名前を付けたことで、僕たちの意識の中で植物の木の実のりんごという「実体」と「りんご」という名詞が必ずしもイコールで結ばれなくなってしまい、自我の「観念」という理性の力が弱まったとき、無意識内にある自然との一体的なものが「ふっと」表出するのではないかと。
僕がこう解釈したのもユング心理学で有名な河合隼雄氏の「影の現象学(講談社学術文庫)」で、
未開人のように自我の力が弱い場合、外界の知覚と内界のイメージとは融合が生じやすく、朝日の昇るのを見るとき、それは神そのものとして体験される。つまり、朝日を見て、それを神と見なすという二段構えの心の動きではなく、外界にある朝日と内界いある神のイメージとは完全に融合し、ひとつのものとして体験される
という文章を読んだときです。

「霊性」が「神」になった
先に述べた「霊性」によって得られる感覚・体験は、自分たちでは絶対届かない大きな存在があるのでは?という「恐れ」、「畏怖」、「諦め」と「包まれている」「活かされている」という感覚が人間によって「神」と概念化されたのではないでしょうか?
あるホームページでは「霊性」を光の波動とか言ったり、自己の精神的意識の位が低いと霊性が感じられないとか言っている方がいらっしゃいますが、感じ方は人それぞれですし、何がそのような体験が出来るかとうトリガーみたいなものは、「位」がどうのこうという問題ではないと思いますよ。

そして、この「恐れ」「畏怖」「諦め」「包み込まれる」「活かされている」という感覚が宗教の基本となっているのではないでしょうか?
これを宗教の基本「宗教性」といいましょうか、この宗教性を基に教祖が教義というものを創り、発展させたのではないかといいうことです。
それは、教祖が「私は、素晴らしい体験をした、これを皆にも知ってほしい」と思ったのが発端でしょう。しかし、「こんな感じ」と説明しても中々理解できないでしょうから言葉による概念化と偶像化が行われたと思います。そして、人びとのそれを信じることによって「不安」や「恐れ」を払拭したいという「補償」と合致したのでしょう。

ここで「補償」という言葉が出てきましたが、「補償」とは自分の心の状態をある方向へ引き寄せる為に「お笑い番組を観たり」「ラヴソングを聴いたり」「悲しいドラマを観たり」「緊迫した雰囲気のときに冗談を言ってみたり」することをして補おうする行為のことです。
特に信仰が無い人でも窮地のときや願望を叶えたいというときに「神様ぁ~」と言って気持ちを落ち着かせようとしますよね、それが「補償」です。

たぶんこれまでの文章で用語の使い方の間違いとか多々あるでしょうが、その辺は、僕は学者ではないということと「脳みそが足りないやつ」ということでご勘弁を

で結論は、
「神はいないが、いると思いたい人間がいる」です。


次回では、「でも宗教は必要なのかなぁ~、神や仏は必要なのかなぁ~}ということを語って行きたいと思います。

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「父性の復権」を読んで

父性の復権

今更ではありますが、「父性の復権(林道義)」を読んでみました。林道義氏というとユングの翻訳で有名な方ですが、私は今までユングというと河合隼雄氏の著書しか読んだことがなく、今回が初めての林氏の著書となります。
本書は出版されたとき色々と物議を呼んだそうですが、当時はあまり心理学に興味がありませんでしたのでそのことはしりませんでしたが、アマゾンのレビューなんかを読んで見るとなんとなく解るような気がします。でも本書を批判されている方はちょっと勘違いをされているようですね。林氏は「基本的に父も母も両方がもたなければならいと考えている」と言っています。実際、母親だけで沢山の方が立派に子供を育てられています。また、「父性」とはそういった性質に名前をつけた(概念化)です。
それはさておき、
実は林氏の著作を購入したのは本書が最初ではなく、ユングの「個性化とマンダラ」が最初なのですが、まだ読んでいなく積読(つんどく)状態ですので本書が最初となりました。
そのうち「元型論」も購入の予定に入っておりますので(資金は確保した)、今後、ユングのことを勉強したいと思っている私にとっては林氏の著書、訳書に触れる機会が増えてくると思われます。

父性とは
「自らの欲望をコンロールし、全体の将来を考えてリーダーシップをとり、各成員の調停をして取りまとめ、ルールを教えるという立派な人格」と「文化を伝承していく」には父性というのが必要ということです。その父性を発揮するのに適したのが父親で、最近、無気力の人が増えてきて、無気力現象ははっきりと父性の欠如からきている場合が多い。心理臨床家の中には心的エネルギーが低いだけとう患者が増えているそうです。

父性の条件
林氏は父性の条件として5つにまとめています。
1.まとめあげる力
しっかりとした価値観を持ち、家族をまとめあげ、原理原則を示す力、これには構成力が必要であると言っています。
構成力とは「異なった要素を意味ある全体へとまとめあげる力」です。
2.理念、文化の継承
3.全体的・客観的視点(この中で最も大切なので「公正な態度」だと言っています)
4.指導力
5.愛



以下自論
父親が父性をもって子供に接してもその影響力が強いのは子供が中学生ぐらいまででしょう。それまで子供は父親が知らないところで父親が知らない、教えてくれないことを身に付けていきます。しかし経済的には自立していないし、精神的にも不安定です。そうして子供も高校、大学、社会人、結婚、父親へと成長していきますが、その成長の過程の中で自分の父親を超える時が必ずあるのです。しかし子供に父性が足りないといつまでたっても自分の父親を乗り越えられない子供が出来てしまうのです。精神的に父親を乗り越えられない子供の中には物理的な行動(暴力)によって乗り越えようとしてしまいます。
リーダーを育成するのも父性が必要
巷の本屋にリーダーシップ育成の自己啓発関連の書物が沢山並んでいますが、このリーダーシップを育てるにはこの父性は欠かせないのでです。リーダーたるものは結果が全てですが、リーダーとはメンバーが100%以上の力を発揮できる環境を作り、掲げた目標を前向きに何がなんでも達成するという意欲が必要なのです。特に日本人は、その「場」を維持するために信念や決意・ルールを破っていまうことが多いように思います。目標を達成できなかった時の「よくがんばったよ」、「結果が全てじゃないよ」とかの慰めは母性の役割です。でも今はその「場」が良ければ何でもいい状態のような気がします。体制が違う国に行って女性と関係をもってハニートラップに引っかかる政治家とか、お金を積まれて自分の信念を曲げてしまう人とか(そういう人は信念なぞ持ち合わせていないか)、国家の機密を簡単に他国に売り渡すとか、そういった父性が足りない人の話は新聞をちょっと広げただけでも沢山載ってますね。

「エゴグラム」のCPに似ているなぁ
しかしこの「父性」はエゴグラムでいう「CP」にあたる部分に似てなくはないでしょうか?
エゴグラムとはご存知の方もいらっしゃると思いますが、精神科医のエリックバーン氏の「交流分析」をもとに個人のパーソナリティの構造を分析する手法です。

人には人格における構成要素として3つの要素があると言っています。
P(Parent:親)
A(Adult:成人)
C(child:子供)


この要素の組み合わせの強弱をグラフで表したものをエゴグラムと呼んでいます。
組み合わせには
CP(Critical Parent:批判的親)
NP(Nurturing Parent:保護的親)
A(Adult:成人)
FC(Free Child:自由な子供)
AC(Adapted Child:順応な子供)

の5つがあります。
この分析を行った時に、人は全ての要素を持っていますが、極端にある要素が高かったり、低かったりした結果が出た場合やはり問題がありますので自覚して行動する必要があるでしょう。
で、先ほどCPに似ているのではないかと言ったのはCPというのは「物事を批判的に見て、厳格に自分の信念を持って対処する」要素です。逆に母性的な部分はNPにあたります。因みにAは物事を冷静に客観的に見る要素で、Fは物事に囚われない自由な性格を持っています。ACは今で言う空気を読んで物事にあたる要素です。

経営者にとって必要な要素
このCPというのは会社などの組織の頂点に立つ人にとっては欠かせない重要な要素です。信念と明確な目標をもって組織の全体、利益、幸福を考えなければ会社・組織は潰れてしまいます。しかしこのCPが強すぎてもいけません。組織を枠に縛りつけ硬直させてしますからです。この辺りは状況を見て他の要素を意識的に使うしかありません。要はバランスの問題ですね。

最後に、「父性の復権」にエゴグラムを絡めたら本題とは違うエゴグラムの方が文章が長くなってしまいました。最後まで読んでいただいた方には、僕の拙い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
この文章を書いていて思うのは、「先の戦争で日本は悪いことをしたよね」といって、あれもこれも軍国主義につながるから無くしてしまえという風潮が今だ60年以上も経って蔓延っていることです。なんかそれらの主張を聞いていると日本人であること自体「罪」といっているような気がします。そうやって今の日本人の男達はどんどん去勢されていくのかなぁ~と感じるのです。あげくの果ては、痴漢と間違われるのがイヤと「男性専用車両を作ってくれ」とな、行き過ぎにも程があります。痴漢は犯罪ですが、これでは男が女性に対して怖がっているといか思えません。男女平等とかいいながら結局は「性別隔離政策」のようになってしました。これでは少子化にもなるわなぁー。正々堂々と異性に接せられない卑怯な男性を作ったのはやはり去勢されたからですよ、あと男に残されたのてんのは腕力ぐらいだもん。腕力が無い人はコソコソするしかないからこんなことになるんだと思います。変な時代になりましたね。

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