[欲望」と資本主義 ~終わりなき拡張の論理~を読んで
[欲望」と資本主義 ~終わりなき拡張の論理~
佐伯 啓思 著

ちょと「欲望」とは何ぞや?
とういうことでいろいろ調べているうちに出合った本です。
「欲望」の「欲」って、、よく「欲ばり」とはいわれるのでネガティブに捉えられることもあるのだけれども、
ポジティブには「意欲」ということばもあります。
基本的には、対象とする「人物」や「物」に「差異」が認められ、その差が大きければ大きいほど「欲望」が高まるといわれていますが、僕みたいな低収入の人がロールス・ロイスが欲しいとか思いませんので、その人の経済状態とか、価値観に社会情勢なのどが影響して、ある所から「差異」があっても急速に「欲望」が無くなるものと思います。
その辺りの話は機会を改めて行いたいと思います。
本書は、今まで「資本主義」というと「社会主義」との対で語られることが多かったのですが、冷戦終結でそういった体制ではなく「資本主義」そのものを、「人間の欲望の拡張という観点から資本主義を理解してみたい」「資本主義とは人間の活動のあくまで一部、重要ではあるがひとつの局面なのである。」という観点からかかれています。
資本主義といったらマルクス・レーニン主義が必ずでて絡めて語られていたわけですが、この本はあくまで「資本主義的な活動」ということに焦点をあてた内容となっています。最初は単に「モノ」を所有する喜び(快感)だけで済んでいたものが、他人と違うモノ、自分らしいモノへと果てしなく拡大していく欲求はバーチャル・リアリティなどの技術の発展で、シミュレーションによって「快感」だけが得られるかもしれない。そうすると、モノを生産しない「シミュレーション資本主義」というものが考えることさえできるであろう。技術のフロンティア開拓は盛んに行われているが「大衆化」とは結びつかない、技術のフロンティアと欲望のフロンティアが乖離し始めているからだ。産業技術が独占してきた「近代」を脱して、もう一度、文化や知識の領域に取り戻す可能性が開かれたのである。欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになったのではないかと思う。と筆者は閉めています。
これを読んで、「モノを所有することで他の人と同一化したい」「モノを所有することで他の人と差別化したい」という欲望は人間に常に付きまとうものですが、その欲望を快感にし、切り出して浸ることは人間にはできません。なぜなら人間は肉体を持っているからです。また、テレビを観る、音楽を聴くといった受身だけでも人間の欲求は満足しません。一昔前に流行ったバーチャル・リアリティも一般にはあまり聞かなくなりましたが、アニメ「電脳コイル」のようにメガネをかけただけで、他人とコミュニケーションでき、仮想のものを触覚で感じる時代が確かに来るでしょう。そのような技術で一時的にも欲求・快感を消化できたとき、果してリアルに何が残されるのでしょうか?
そして、その残されたリアルを見た時に人々は何を感じるのだろうか?
自分の感情とモノや他人の差の距離は固定されたものではなく、相対的なもので絶えず揺れ動いている。その揺れ動くことが不安に感じるという人が近年では多いように思えてなりません。それは今までの資本主義が「お金」と「モノ」が主体だったからで、自身の「個」があまりにもあざなりになっていたからではないでしょか?
今、そのおざなりになっていた「個」が一気に噴出してきたような気がします。「ブログ」「youtube」「ニコニコ動画」「初音ミク」などの既存のメディアを脅かす自分の発表の場ができたからです。そこには他者からリアルに直接フィードバックされ、「個」をじかに確認できるシステムがあります。この「個」を拡大生産させるシステムに人々は資本・資源を投入していく新たな「資本主義」が、筆者のいう「欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになった」ことではないでしょうか?
この「個」を拡大生産した後のことは、今後の私たちの自身の課題になるでしょう。
で無学な僕には、本書のタイトルの「欲望」とが「資本主義」から少しはずれて、なぜ、中世から近世にかけて西欧諸国が植民地主義に走ったのかが本書に書かれていたて気になったので参考程度にご紹介します。
西欧では中世から封建社会で王侯貴族が権力を握り、欲望のかぎり欲しいもの手に入れていたのは、あえて言う必要はありませんが、その欲望が高まりもっと大きい「差異」を入れようと他の文化圏との交易を始めたわけです。
具体的には中東の「ペルシャ絨毯」、インドの「綿」、東南アジアの「香料」、中国の「陶器」などです。
それらは始め、金と取引をして購入していたわけですが、始めのうちは王侯貴族の一部の人が買う程度どのものが下層に広まって行き、ある種のオリエンタルブームが起きて輸入過多になってきたわけです。
で、必然に金がなくなる借金がかさむ。貿易不均衡状態になったということでしょうか。
でそれではたまらないと西欧の人は、それでは貿易している国を征服してしまえばいいいと思い、それらを植民地にしたのです。要はそうすることで借金を踏み倒したとでもいいましょうか。
そこでアメリカは完全に出遅れましが、国内に膨大な土地があるので、奴隷を買って国内で綿を栽培しようとして始まったのが、奴隷貿易だということになるのでしょう。
ここで、植民地化するにも奴隷貿易する際にも、その土地の人々を使いたいように使ったわけですが、その大義名分に使われたのか「異教徒だから」です。つまり彼らは「キリスト教徒では無い」と、イエス・キリストの教えこそ最高で、その教えを未開の地の人々に教え広める必要がある。抵抗するものは殺ってしまえとばかりに行ったのです。
そして東へ、東へと彼ら西洋人は拡大を進めて行ったわけですが、中国に来た辺りからフランス革命などで民主主義が起こり、封建主義が衰退したのです。もし、このままの勢いが続けば日本も西欧の植民地になっていたかもしれませんが、しかし日本では科学は発達しなかったものの、商業文化は発達して、そのための寺子屋もあったりして識字率は高く、他の地域から突出していたので、日本を完全に植民地化するのはかなり苦労したことでしょう。そういうことを考えると日本ってラッキーな国だな。とあらためて思います。
結局、この本で何を思ったのかといいますと、
キリスト教は、これらの歴史から鑑みて内省すべきではないかと
イエスが直にやったのではないが、キリスト教にそういう解釈ができる部分があったからこそ、大義名分に利用され世界をぐちゃぐちゃにしたのですから。
余談ですが、「聖パウロ」とか「聖」がつくと、何だか有り難味があるような気になりますが、この辺りは日本人は肩書きに弱いので分別して考える必要があるかと、つまりキリスト教徒じゃない人にとってはどうでもいい話で「部長」「課長」はそちら組織の話であって、「聖」がついても俺らの「聖」じゃねえよ。
ということです。
佐伯 啓思 著

ちょと「欲望」とは何ぞや?
とういうことでいろいろ調べているうちに出合った本です。
「欲望」の「欲」って、、よく「欲ばり」とはいわれるのでネガティブに捉えられることもあるのだけれども、
ポジティブには「意欲」ということばもあります。
基本的には、対象とする「人物」や「物」に「差異」が認められ、その差が大きければ大きいほど「欲望」が高まるといわれていますが、僕みたいな低収入の人がロールス・ロイスが欲しいとか思いませんので、その人の経済状態とか、価値観に社会情勢なのどが影響して、ある所から「差異」があっても急速に「欲望」が無くなるものと思います。
その辺りの話は機会を改めて行いたいと思います。
本書は、今まで「資本主義」というと「社会主義」との対で語られることが多かったのですが、冷戦終結でそういった体制ではなく「資本主義」そのものを、「人間の欲望の拡張という観点から資本主義を理解してみたい」「資本主義とは人間の活動のあくまで一部、重要ではあるがひとつの局面なのである。」という観点からかかれています。
資本主義といったらマルクス・レーニン主義が必ずでて絡めて語られていたわけですが、この本はあくまで「資本主義的な活動」ということに焦点をあてた内容となっています。最初は単に「モノ」を所有する喜び(快感)だけで済んでいたものが、他人と違うモノ、自分らしいモノへと果てしなく拡大していく欲求はバーチャル・リアリティなどの技術の発展で、シミュレーションによって「快感」だけが得られるかもしれない。そうすると、モノを生産しない「シミュレーション資本主義」というものが考えることさえできるであろう。技術のフロンティア開拓は盛んに行われているが「大衆化」とは結びつかない、技術のフロンティアと欲望のフロンティアが乖離し始めているからだ。産業技術が独占してきた「近代」を脱して、もう一度、文化や知識の領域に取り戻す可能性が開かれたのである。欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになったのではないかと思う。と筆者は閉めています。
これを読んで、「モノを所有することで他の人と同一化したい」「モノを所有することで他の人と差別化したい」という欲望は人間に常に付きまとうものですが、その欲望を快感にし、切り出して浸ることは人間にはできません。なぜなら人間は肉体を持っているからです。また、テレビを観る、音楽を聴くといった受身だけでも人間の欲求は満足しません。一昔前に流行ったバーチャル・リアリティも一般にはあまり聞かなくなりましたが、アニメ「電脳コイル」のようにメガネをかけただけで、他人とコミュニケーションでき、仮想のものを触覚で感じる時代が確かに来るでしょう。そのような技術で一時的にも欲求・快感を消化できたとき、果してリアルに何が残されるのでしょうか?
そして、その残されたリアルを見た時に人々は何を感じるのだろうか?
自分の感情とモノや他人の差の距離は固定されたものではなく、相対的なもので絶えず揺れ動いている。その揺れ動くことが不安に感じるという人が近年では多いように思えてなりません。それは今までの資本主義が「お金」と「モノ」が主体だったからで、自身の「個」があまりにもあざなりになっていたからではないでしょか?
今、そのおざなりになっていた「個」が一気に噴出してきたような気がします。「ブログ」「youtube」「ニコニコ動画」「初音ミク」などの既存のメディアを脅かす自分の発表の場ができたからです。そこには他者からリアルに直接フィードバックされ、「個」をじかに確認できるシステムがあります。この「個」を拡大生産させるシステムに人々は資本・資源を投入していく新たな「資本主義」が、筆者のいう「欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻すことができるようになった」ことではないでしょうか?
この「個」を拡大生産した後のことは、今後の私たちの自身の課題になるでしょう。
で無学な僕には、本書のタイトルの「欲望」とが「資本主義」から少しはずれて、なぜ、中世から近世にかけて西欧諸国が植民地主義に走ったのかが本書に書かれていたて気になったので参考程度にご紹介します。
西欧では中世から封建社会で王侯貴族が権力を握り、欲望のかぎり欲しいもの手に入れていたのは、あえて言う必要はありませんが、その欲望が高まりもっと大きい「差異」を入れようと他の文化圏との交易を始めたわけです。
具体的には中東の「ペルシャ絨毯」、インドの「綿」、東南アジアの「香料」、中国の「陶器」などです。
それらは始め、金と取引をして購入していたわけですが、始めのうちは王侯貴族の一部の人が買う程度どのものが下層に広まって行き、ある種のオリエンタルブームが起きて輸入過多になってきたわけです。
で、必然に金がなくなる借金がかさむ。貿易不均衡状態になったということでしょうか。
でそれではたまらないと西欧の人は、それでは貿易している国を征服してしまえばいいいと思い、それらを植民地にしたのです。要はそうすることで借金を踏み倒したとでもいいましょうか。
そこでアメリカは完全に出遅れましが、国内に膨大な土地があるので、奴隷を買って国内で綿を栽培しようとして始まったのが、奴隷貿易だということになるのでしょう。
ここで、植民地化するにも奴隷貿易する際にも、その土地の人々を使いたいように使ったわけですが、その大義名分に使われたのか「異教徒だから」です。つまり彼らは「キリスト教徒では無い」と、イエス・キリストの教えこそ最高で、その教えを未開の地の人々に教え広める必要がある。抵抗するものは殺ってしまえとばかりに行ったのです。
そして東へ、東へと彼ら西洋人は拡大を進めて行ったわけですが、中国に来た辺りからフランス革命などで民主主義が起こり、封建主義が衰退したのです。もし、このままの勢いが続けば日本も西欧の植民地になっていたかもしれませんが、しかし日本では科学は発達しなかったものの、商業文化は発達して、そのための寺子屋もあったりして識字率は高く、他の地域から突出していたので、日本を完全に植民地化するのはかなり苦労したことでしょう。そういうことを考えると日本ってラッキーな国だな。とあらためて思います。
結局、この本で何を思ったのかといいますと、
キリスト教は、これらの歴史から鑑みて内省すべきではないかと
イエスが直にやったのではないが、キリスト教にそういう解釈ができる部分があったからこそ、大義名分に利用され世界をぐちゃぐちゃにしたのですから。
余談ですが、「聖パウロ」とか「聖」がつくと、何だか有り難味があるような気になりますが、この辺りは日本人は肩書きに弱いので分別して考える必要があるかと、つまりキリスト教徒じゃない人にとってはどうでもいい話で「部長」「課長」はそちら組織の話であって、「聖」がついても俺らの「聖」じゃねえよ。
ということです。
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