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時には喪失感も必要では?

不謹慎な話ですが、肉親・親近者を亡くしたり、友人を亡くすことが人生長いですから誰にでもあることです。その亡くなった方がいなくなることは、肉親であったり親密な友人ほど喪失感が大きいとうのは、もうあえて若輩の僕が申すことでもありませんが、耐え難いものです。その耐え難い「死」というものを受け入れてこそ、先に亡くなった方への供養という形にできることも申すまでもありません。

小笠原 泰著「なんとなく、日本人」PHP新書の中で、「日本人は、死者との間にも関係性をもっている。人類学者の波平恵美子がいうように、日本において、「死者の霊は、人が死ねば自然に生じるものではない。」遺体という言葉が示すように、死者の遺骸は、家族や血縁者に残されたものであり、その人たちによって処理されることが期待されている。依然として多くの日本人にとっては、家族や血縁者による適した死者儀礼によって、「生者」は「死者」へと時間をかけて移行していく、(死ぬという「コト」なのであって、医者の死亡診断を通じて「死者」へと即座に移行する(死という「モノ」)ものではない。」
~中略~
 つまり、死者が死後も居つづけるとする観念が、依然として日本人の死の観念の中心にあるのである。」

なぜ、この「死」というのを扱うかというと、タイミングよく死んでしまった上野動物園のパンダの話をするからです。
つまり、一時期アイドル的な存在だったパンダが死んでしまった。もう上野動物園にはパンダはいない。これはもう仕方がないことでしょう。そこで、上野にパンダがいないなんて「子供がかわいそう」または「これで商売してたのに困る」という方がいらっしゃると思いますが、死んだから代わりにホイホイと「次のパンダを」としてしまっていいのかいうことです。これはよくゲームを批判するときに、「リセットボタンを押すように殺人または自殺をしてしまう」なんてことを言われますが、これではその喩えで使われるリセットボタンと同じことではないでしょうか?特に今の日本はシナとギョーザ問題やチベット問題で微妙な時期です。そこでまた「子供がかわいそうだから」「いなきゃ困る」って、いつからパンダは普遍的な存在となったのでしょうか?ここで「がまん」をする。「死」を受け入れ「喪失感」を味わうということもあえて「子供たちに」必要なことのように思えます。
ここで、「そんなことを言っても子供にはやがて「死」を受け入れる時が来るからせめてパンダだけでも」という方がいらっしゃるかもしれません。それこそ僕が何度も言いますが「母性」が突出しているということです。詳しくは「父性の復権」のエントリーをお読みください。過保護はかえって毒なのです。

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