映画・テレビ

映画「ベティの小さな秘密」を観ました。

映画「ベティの小さな秘密」
僕は劇場で映画を観るとき、監督は誰とか、脚本が誰とかという情報は全然気にしないで、タイトルとかスチール写真とかで判断して選んでいます。
本当のところはユング心理学にはまって、この手の映画を選んでいるというのが本音かもしれませんが…。

今回はフランス映画です。タイトルは「ベティの小さな秘密」
本当は公開初日に観に行きました。夕方だったんですけど僕を含めて30人位しかいなかったorz

映画の概要は公式サイトをご覧になってください。
映画「ベティの小さな秘密」
いやぁ~、ロリコンと言われても反論できないのですが、とにかくベティがかわいい!
着ている洋服もかわいい!
これだけでも見る価値はあるのではないでしょうか?

映画自体は、ユング心理学で言うと”アニマ”、”アニムス”がテーマの映画だと思います。
最後のシーンでベティとブラピ崩れのイヴォンの二人が幽霊屋敷に入って行くシーンがあるのですが、なんとなく屋敷自体が子宮を暗喩しているように感じがしました。
実際のところどうなんでしょ?
フランス映画だからその辺りの記号性が薄いんだよね。DVDが出たらレンタルでもう一度確認したいと思います。

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観てきた人のための「パコと魔法の絵本」(ネタバレ)

映画「パコと魔法の絵本」
多分、このような映画の深いところ先に読んじゃうと、先入観で映画に集中きなりますので、
以下のこの文章は、映画「パコと魔法の絵本」をご覧になった方のみお読みください。

まず、この映画の語る前に、ユング心理学の”アニマ”からお話しなければなりません。
”アニマ”は男性の無意識における”女性の人格を感じさせる心のパターン”、つまり、簡単に言うと、男性の無意識に存在する女性像です。

大貫ってどんな人?
大貫は抑圧的で自尊心の塊のような人物です。この”自尊心”を象徴するのが”金のライター”です。大貫は自らの自尊心に火をつける(ライターの役目)ことで生きてきた人間と言えるでしょう。
葉巻の煙によって、自分の威厳をふり撒いています。これは一種の防衛的な行動とも言えます。
また、常に抑圧的だったことから無意識内の”アニマ”が退行してしまったか、未発達のままなのかは今の僕では解りませんが、大貫のアニマであるパコが、母親からあまり自立していない男性に現れる「清純乙女型のアニマ}であることから、おそらく未発達のままだったのでしょう。
大貫は金のライターを無くし、またライターの火が点かなくなることで、はじめてパコに対して真摯に付き合おうとします。人は何かを無くしたり、余計な拘りが無くなってはじめて気づいたり、そのものの本質が見えたりします。

パコ
パコは、交通事故で1日しか記憶がもたない少女と大貫のアニマという大きく2つの要素がありますが、実は登場人物全員のアニマであり”影”であったのではないでしょうか?”影”とはユング心理学の概念で”個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が許容しがたいとしている心的内容”のことをいいます。
病院内の男性の登場人物にはアニマとしての”パコ”
病院内の女性の登場人物には影としての”パコ”
なのでしょう。

パコの役目
ユングの”自己実現(個性化)”とは、ユングは人間の心全体を自己(Self)と定義し、自己は2つの要素”意識”と”無意識”とで成り立っていると定義しました。
また、意識の中心は自我であり、普段僕たちの意識的な行動はこの自我によるものです。
また、もう一つの無意識の方ですが、無意識には体験で獲得された後天的な”個人的無意識”と人類共通に持っている先天的な”普遍的(集合的)無意識”の2つがあると定義しました。
大貫の”アニマ”であるパコは、この”普遍的(集合的)無意識”の中にあるとされている”元型”という、”人が生得的に持っている「大母」「父」「異性の象徴」「賢者」「神」「自分の影」のイメージを作り出すもとです。人はこれらを予め持っているのですが、これらが現れるのは自我が弱くなった時の睡眠時に現れる「夢」などにしかありません。普段は個人的無意識の中にある”コンプレックス”によって屈折されるか、あるものに投影された状態でしか姿を現さないのです。
”コンプレックス”は自我が意識に必要がないと捨てたり、自我が脅かされると判断して抑圧したりしたものの「複合体」です。ユングによるとコンプレックスは元型と密接していると言っています。
ユングはこのコンプレックスに密接した”元型”を意識化して自我に取り入れ統合することを”自己実現”または”個性化”と読んでいます。
パコは大貫にとって、”元型”です。しかもそれはコンプレックスによって7歳の少女のままのイメージです。
大貫はそれを自分のものと認識し、自我の中へ取り入れ統合する行為の過程がこの映画の劇中劇の「ガマ王子とザリガニ魔人」を演じることにあるのです。
そして大貫の内面で起きていることをイメージ化したものがコンピュータ・グラフィックスの部分なのです。(夢の中と同じ状態と考えてください。)
多くの物語で陸は”意識”、水の中は”無意識”という比喩的なお約束があります。これは「崖の上のポニョ」でも同じです。カエルは両生類ですの陸でも水中でも生活ができます。大貫はそのカエルになってパコを救いだす。つまりパコと同じレベルまで下げて自らの無意識の中のものを取り込んで自我をより高い次元へ統合しようとしているのです。

大貫の臨死
大貫はこの劇中劇が終わると倒れてしまいました。これは死(臨死)の体験で自我がより高い次元に発達し、古い自我が死んだことを意味しています。この後、消防士が雨をホースで降らせるのですが、これは授精という意味があって再生のための雨です。母なる大地は雨によって肥え、新しい生命を発芽させます。これによって大貫は生き返るのですが、パコはその役目を終え死んでしまいます。ということはパコも死んで新しい発達したアニマとなって再び大貫に宿るのです。

なぜ大貫は名前をパコに覚えてもらおうとしたのか?
この映画では、パコは交通事故により自分の記憶が一日しか持たないという設定があります。それはあくまでも表の設定であって、それはとは別にパコは大貫の意識の中に取り入れられるアニマとしてのパコという裏の設定があります。大貫に意識に取り込むということは大貫の自我がそうしているのであり、自我は持続性と同一性という性質を持っていなければならないということです。つまり映画では大貫はパコに毎日々、自分の名前をパコに教え、その過程で大貫はパコを意識の中へ取り込もうとしているのです。また、大貫はパコ以外の登場人物に対しては「自分を知っているというだけで腹が立つ!」と言っているのは、名前を他人に知られることで、自分が他者にコントロールされるのを嫌がっているということだと思います。

これを書いていて、僕自身がユングの言う「自我」「意識」「個人的無意識」「普遍的(集合的)無意識」がよく解っていないとことを痛感しました。誰かに修正または補完していただくとありがたりです。
ユングの定義、概念とその関係性の解釈に自信がありません。勉強不足です。
参考にしたのは河合隼雄氏と林義道氏の2つの「ユング心理学入門」です。
林道義氏の「ユング心理学入門」3部作がPHP研究所にて絶版扱いになっているのが悔やまれます。再販をして多くの方に読んでほしい書です。
最後に、映画「パコと魔法の絵本」に伴って、観ていなかった「下妻物語」をやっと観ました。これはユング心理学で解釈すると”影”ということになるでしょうか?相反するお互いにある自分の”影”を認め合うことで成長するという映画ですね。いい映画だと思います。

中島監督は、写実的な映像、演技ではなく、デフォルメされたものの中から真実を見せるという浮世絵などからアニメにいたる脈々と受け継がれた日本的なものをうまく扱ってみせる監督だと感じました。

早くDVD発売にならないかなぁ~
BD版が出たらそっち買っちゃうかも?

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観た人のための、映画「魔法にかけられて」

今回は、ディズニーの日本では今年の初春に公開された「魔法にかけられて」です。
もう公開から半年が経ちますのでネタバレでいきます。
ストーリーはここでは紹介しません。
この映画の概要は公式サイトでご確認ください。
いつものようにプロットの構造とか映画の深層などを語って行きたいと思います。
ですのでまだ観ていない方は、レンタルとかで観てからお読みください。

まず、以前にも触れました原題ですが、”Enchanted”には「魔法にかけられる」という意味と「魅了される」という2つの意味があります。このあたりのタイトルの付け方はさすがです。映画の内容に非常にマッチしていますね。

ジゼルの成長
始めに、主人公のおとぎ話の世界のプリンセス”ジゼル”についてお話します。この物語は彼女の成長が主軸となっています。最初、ジゼルは男性を模した人形を作って憧れの男性を待つということから未熟というか未発達な部分を感じされる女性でした。
そこへ、勇ましいけど楽天的な王子がやってきて二人結婚することにしたのですが、ジゼルの真の目的は”真実の愛”を獲得することです。ですので彼女自身の影というべき女王の誘惑に負けて、噴水(滝?)の水が流れる穴の中へ落とされてしまいます。
ここで”穴に落ちる(地下に入る)”とか”土の中にもぐる””水の中”というのは意識の深層に入るということで無意識の世界を表しています。女王がナザニエルに指示・命令するのですが、これも水を通して行われます。水は”意識”の意味しています。例えば宮崎監督の「崖の上のポニョ」で嵐のシーンがありますが、あれは宗介の意識の乱れを表現しています。
話を戻して、そこでジゼルはユング心理学でいう”アニムス(女性の無意識内にいる男性の象徴的イメージ)”であるロバートと出会います。そこで彼女は今まで持っていなかった感情を知ることになります。それが”怒り”です。今までジゼルは肯定的な感情しか持っていませんでしたが、この”怒り”という感情を知ることでジゼルの感情の幅と奥行きが生まれます。
アニムスは女性の自我と結合してその女性を成長させるのです。それを深層心理学のユングは”自己実現”または”個性化”といっています。つまりジゼルの自己実現はアニムスとの結合により”真実の愛”を獲得することです。つまりロバートと結ばれることです。ここでこの映画の面白いところなのですが、この自己実現の過程で状況が逆転するのです。

状況の逆転
今までアニメのおとぎ話の世界と実写の現実の世界の対比という構造でこの映画の物語は進んで行くのですが、ラストの方でおとぎ話の世界が実写になります。それが仮装舞踏会のシーンです。ここでは今まで現実の世界の人たちがおとぎ話の格好をして、ジゼルだけが現実世界の格好しているのです。
このシーンの目的は、一段成長したジゼルがロバートと王子を並列に見るためです。ジゼルが一段成長したということは彼女の衣装がおとぎ話の衣装ではない、つまりもう彼女はおとぎ話の人ではないということを表しています。
また、そしてジゼルに”真実の愛”のキスをする男性は”王子様の衣装を着てキス”をするというジゼルの夢が現実の形にするためにわざわざロバートにおとぎ話の衣装を着させているのです。
魔法にかけられて
ジゼルだけが現代の服装

ジゼルの臨死体験
再び自身の影である女王の誘惑に負けて毒リンゴをかじってしまったジゼル、彼女はそのことで瀕死になるわけですが、ロバートのキスで間一髪で助かります。ただここでは助かったというよりは蘇ったというべきでしょう。
ユング心理学では”こころ”の成長には死と再生が伴うものといっています。影の誘惑で死の体験をしたジゼルはアニムスと結合した状態で再生(蘇り)をします。そこで蘇った彼女は王女に戦いを挑むわけですが、ここで注目してほしいところは、彼女が剣を持つという所です。今までのジゼルでは考えられません。それは彼女がアニムスと結合したからです。アニムスの特性はロゴスを伴ったその鋭い切断能力です。ここのあたりは”シザーハンズ”の回でもでもやりましたね。
魔法にかけられて
アニムスと結合し剣をとるジゼル

そして最後にこの映画は時間が巻き戻るように終わります。このあたりの演出はにくいですね。
魔法にかけられて
魔法にかけられて
このへんの対比がうまいですね

本当によく考えられた映画だと思います。

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ダメダメ邦画「最終兵器彼女」(いまさら)

映画 最終兵器彼女
ふと「あれ、最終兵器彼女の実写版ってどうだったんだろう?」と疑問に思い、今更ながら借りて観てみました。というかダメダメっぷりを観てみようと思ったわけさっ!
(僕は原作のマンが喫茶で一気通読しました。)
で、案の定ダメダメだったわけさっ、監督は原作のマンがは読んだんだろうか?もしかしてアニメ版だけを見て作ったとか?
どう見ても表面的な部分だけを見て作ったとしか思えません。あの原作の深層的な部分は全然語られていませんでした。
そもそもあの話は、少女期から女への身体的変化と意識変化それと共に現れる女性の残酷性を描いたもので、そういうことを入れ込まないと話を作る意味ないじゃん。
だいたい、チセはどうでもいいとして、なにこのシュウジ?
映画 最終兵器彼女
これでもうアウトです。
お口直しに「BSマンが夜話」の「最終兵器彼女」の回を見直してしまいました。
まぁイマジナリーラインも知らない監督が作った「キャシャーン」よりはましだったというだけかな。

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「パコと魔法の絵本」を観てきました。

パコと魔法の絵本
昨日、邦画「パコと魔法の絵本」を観てまいりました。僕にとって映画を公開初日に観に行くなんて久しぶりです。
この映画は前回「崖の上のポニョ」を観に行ったときに予告でやっていて「これは、よさそうだ!観に行こう!!」と直感的に思っていたものです。
僕はそんなに映画の監督が誰とか、原作はどうだとかは気にしていないというか全然疎いので、全く周辺情報無しに観たのですが、この映画の監督は「下妻物語」「嫌われ松子の一生」の監督さんだったのですね。全然知りませんでした。
そして、原作も元々は舞台劇だそうで、これも全く知りませんでした。
そのような全く知らない僕の評価は
「いいです!」
テンポが速く、飽きがこなく、ドラマラインもまぁまぁいいです。とにかく観始めて数分間でその映画のもつ”空気感”で「こりゃ、アタリだ!」と解ります。

内容に関しては公式サイトに譲るとして
登場人物で
自我で感情を抑圧した老人
少女
カエル(両生類、無意識(水中)と意識(陸)の両方を行き来できる存在)
と出てきたら、神話学、ユング心理学が解っている方なら大体想像がつくと思います。
ではその主要な登場人物だけのカタルシスだけかというと、脇役も色々な生い立ちや感情を持っていてそれらも浄化されていきますので観ているほうも男女年齢に関係なく感情移入できるのではないでしょうか。
ただタイトルが子供向けファンタジーのようになっていますが、俗っぽい表現などが多々ありますので低年齢のお子さんには不向きな映画かも知れませんね。でも劇場のお子さんの笑い声がしていたのでまぁまぁいいのかな?

とにかく、邦画が背伸びせず、身の丈をわきまえて出来ることをやった秀作だと思います。
「2ちゃんねる」では、監督の過去の作品と比較して「あーだ、こーだ」と、また原作の舞台劇と比較した議論をしていいますが、僕は「下妻物語」「嫌われ松子の一生」を観ていないのでなんとも言えないのですが、これはこれでいいのではないかと思います。

DVD出たら買うよ!
これからレンタルで「下妻物語」「嫌われ松子の一生」借りてきます。

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押井監督の映画「スカイ・クロラ」を観ました。

押井守監督 映画 スカイ・クロラ
第一印象はずっと昔に見たスタジオ・ジブリ配給の「ダーク・ブルー」を思い出しました。
まぁ声優はもともとこの映画は感情を殺した演出になっていますので僕は誰がどうのこうのとあまり気になりませんでした。
テーマは「永遠の少年」?
で早速英語がダメな私は「英辞郎」でCrowlersという単語を調べたところ”爬虫類””1歳までの赤ん坊””はいまわるもの”という意味があるようです。プログラムにも「空をはいまわるもの」と書いてありました。
この映画のテーマの一つに先日「崖の上のポニョ」でもいいましたが「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」があると思います。
もう一度おさらいします。
「永遠の少年」とは成人することなく死に、太母(グレートマザー)の子宮の中で再生し、少年としてふたたびこの世に現れ、決して成人しない。彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼らは自分の特別な才能を曲げるのが悔しいので、社会に適応する必要がないのだと自らに言い聞かせたり、自分にぴったりとした場所を与えない社会が悪いのだと思ってたりしている。とにかく、いろいろ考えてみるが、いまだその時が来ない、いまだ本物が見つからない、と「いまだ」の状態におかれたままでいる。真実のところその背後に働いているのは太母(グレートマザー)の子宮への回帰の願いであり、その願いのまま死を迎えることもある。
これらの「永遠の少年」たちは、すべて母親との心理的結びつきの強さを特徴としている。ここに「母」と述べたことは、実際の母でなくともよい、「母なるもの」とでもいうべき存在との強い結びつき、母親コンプレックスの強さが特徴的である。
(母性社会日本の病理:河合隼雄 講談社+α文庫より抜粋)
「永遠の少年」は成長段階の過程で非常に英雄的な行動(実際は母なるものをもとめて)をとる場合があります。しかし母性との結びつきがあまりにも強いため成長しきれずに死(意識的な死)に、そして大地である太母(グレートマザー)のもとで土に還り再び春の萌芽のように再生されるという繰り返しをするのです。まさにこの「スカイ・クロラ」という映画がエンドレス構造になっているように。このエンドレス構造から抜け出すには「ティチャー」という壁を自ら打ち破るかまたは肉体的な死を選ぶかどちらかということになります。
”ティーチャー”については私は”先生”つまり先を生きるものとして乗り越えるべき存在と見ています。
で草薙の妹(娘)の草薙瑞季に関してはキルドレではないと言っていますが、果してどうでしょうか?これは喩えで言うと大学受験で浪人している兄に高校3年生の弟がいるような感じゃないか、まだ草薙瑞季はその年齢に達していないだけで、いつか自分が目下のものに抜かされてしまうのではないかという恐怖心が草薙水素にはなるのではないかと思います。

今の世界の中の日本と日本の若者
この映画の設定では戦争がショー、つまり見世物になっています。それも舞台は欧州。つまり欧米人のショーとして日本人が戦っているのです。これは今の世界での日本人の立ち位置を物語っているのだと思います。技術など日本は世界の最先端を行っていますが、どことなくまだ欧米先進国と肩を並べられていないという思い、その思いが日本人を萎縮させ、その萎縮した日本人を見いている欧米人の目があり、今実際起こっている武力戦争および経済戦争で表舞台に立てず右往左往してただ踊るしかないもどかしい日本人がそこにいるのではないかと…。
そのもどがしさが今の若者にもどこかつながっているのでは?

この日本の母性社会と欧米の父性社会、母性社会は全てを受け入れ飲み込んでしまう悪い言い方をすれば”あいまい”な社会と”根本原理”を常に軸にして他と対立していく父性社会の欧米。今の日本はこの父性社会と母性社会の折り合いをどう着けるか問われていて、その解決なり方向性を見出さなければ今のこのもどかしい状態から抜け出せないのではないか。相手は右も左もなく対立するものとして我々日本を見ています。真の国家の友好など幻想です。
いま国際化またはグローバリゼーションなどという安易な言葉で言いくるめていますが、グローバリゼーションの本当の意味は「日本人とグローバリゼーション(河合隼雄 石井米雄 講談社+α新書)」から借りると「超大国が資源、労働力、情報、運輸、財政、分配、市場を統合し、グローバルなスケールでこれを相互依存状態に置く、そういう結果をもたらすような経済的、帝王主義的な拡張主義のいっそう進んだ段階」のこというそうです。同書でナバホ人が「われわれの相手(白人)は、法律的に罰せられなかったら正しいことだという考えで攻め込んでくる人たちだ。だからわれわれには太刀打ちできない」と言っていたそうです。アメリカや中国の覇権、帝国主義に負けず、日本の独立を守るには何かしら日本人自身に冒険心が必要だと私はこの映画から読み取りました。

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「崖の上のポニョ」を観てきました。

崖の上のポニョ
いやぁ~「崖の上のポニョ」観て来ました~。まぁ感想はオッサンの私向けではないとうことなので正直あまり面白くなかったです。ただ、「戸籍はどうするんだ?」とかいろいろ疑問点はあるのですが、そこはファンタジーということでいいんではないでしょうか。でも宗介が男の子ではなく女の子のわぴこでポニョがポテチが好きだったら「きんぎょ注意報」になるのかな?
以下まだ観ていない人は読まないでください。
また下記はあくまでも私の考察でありますので本気にしないでください。


しかしこの映画ファンタジーなんですが、どこから現実でどこから非現実かというライン(シグナル)がないので非常にわかりにくく日本社会が作り上げた「ジブリブランド」ということで「安心して観れるアニメ」として観に行った親子連れはこの「崖の上のポニョ」をどう捉えたらいいのか困惑するでしょう。
本来ならばこのような暗喩を含ませたファンジーはある程度起承転結のしっかりした物語のなかに含ませるべきであって、それを観た子供はファンタジーの深層的な意味を自己の中にどう捉えるかという問題は、それはもう個々の子供自身に任せるしかないのです。これは敢えて大人からこれはこうで、こういう意味があるんだよとレールをひかないで子供自身が発見していけばいい問題です。しかしこの「崖の上のポニョ」は神話や寓話・ファンタジーが持っているその深層的な部分だけをあまりにも前面に持ってきているので親子という関係の中に取り入れにくい映画になっているのです。しかもこの映画の中では「おとうさん」「おかあさん」「おばあさん」という家族的肩書きは排除されていて名前で呼び合ってます。これはあえてしているのでしょうが、観ている観客はあくまでも親子であり家族なので「おかあさん」「おとうさん」「子供」という関係が維持されている状態です。つまり家族で映画を観に行っているのにその家族というものを取っ払って観ろよって言っているようなものです。これでは誰もが困惑するでしょう。まぁそういう困惑というか誤解をジブリブランド自身が生んでしまったのです。

ポニョは宗介のアニマ?
監督の宮崎駿がどういう考えで作った映画かかわりませんが、私の観る限り、この映画の内容はアニマの萌芽を扱ったものだと思います。アニマとはユングの概念で男性が抱く内なる女性像(こころのイメージ)のことをいいます。女性の場合は逆に男性像がありそれをアニムスといいます。これは何故かというと
まず、ポニョは魚ですが、私の手元のイメージシンボル事典では魚は「夢の中で動物の形をとって現れる自己の象徴」とあります。つまり主人公の宗介が自分の夢の中に出てくる動物の形をした自分(自己)ということです。その自分(自己)が女性ですからこれはアニマではないか?と思うのです。
また、映画の最後に宗介とポニョがキスをして映画は終わるのですが、これもユングがよく言う「結合」ということになるのではないか?「結合」とはユング心理学の用語で「対立するものの結合により、新たな要素が生まれる」ことをいいます。この映画でいう対立するものとは男(宗介)と女(ポニョ)です。ポニョは宗介のアニマですから、宗介に取り込まれるということになりますが、それによって宗介が成長することになります。その成長が「結合によって生まれる新たな要素」なのだと思います。ただユング心理学では、それには死が必要だと言っています。これはあくまでも成長過程の概念で実際の肉体の死ではなくあくまでも意識内におこる変容で、映画の中ではその死と再生の転換点がトンネルということになるのではないか?トンネルは言うまでもなく女性の「膣」または「子宮」を暗喩させるものですから。

ポニョは最初カエルだった!
先に魚は「夢の中で動物の形をとって現れる自己の象徴」といいましたが、宮崎監督はポニョは最初魚ではなくてカエルにしようと思ったそうです。ではカエルにはどんな意味があるのかというと、カエルは両生類の動物です。その水と陸、両方に住める、往来できるという意味で意識と無意識をつなぐもの、あるいは無意識内より意識界へと出現してくるものを思わせます。(昔話の深層:河合隼雄 講談社+α文庫)このように魚もカエルも大体似たような意味をもっているのでここは女性性ということで魚にしたのだと思います。

フジモトの存在がわからん
海は生命の源ということということで「母」のイメージがあり、また水は深層意識、無意識の領域を意味しています。
フジモトは世捨て人で、人間界を嫌い半分人間、半分海の男として生きて、なにやら忌まわしい人類の時代を終わらせ再び海の時代にするために「生命の水」というものを作っているのですが、この生命の水は普通に考えると精子に思えるのです。しかしよく考えるとフジモトこそカエルではないかとも考えられるのです。先も言いましたように半分人間、半分海の男ですから両生類と捉えられなくもないのです。また、彼は「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」とも考えられます。
「永遠の少年」とは成人することなく死に、太母(グレートマザー)の子宮の中で再生し、少年としてふたたびこの世に現れ、決して成人しない。彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼らは自分の特別な才能を曲げるのが悔しいので、社会に適応する必要がないのだと自らに言い聞かせたり、自分にぴったりとした場所を与えない社会が悪いのだと思ってたりしている。とにかく、いろいろ考えてみるが、いまだその時が来ない、いまだ本物が見つからない、と「いまだ」の状態におかれたままでいる。真実のところその背後に働いているのは太母(グレートマザー)の子宮への回帰の願いであり、その願いのまま死を迎えることもある。
これらの「永遠の少年」たちは、すべて母親との心理的結びつきの強さを特徴としている。ここに「母」と述べたことは、実際の母でなくともよい、「母なるもの」とでもいうべき存在との強い結びつき、母親コンプレックスの強さが特徴的である。
(母性社会日本の病理:河合隼雄 講談社+α文庫より抜粋)
つまりフジモトは現実逃避し、居心地のよい海(無意識)という太母から離れられない大人になれない大人であり、彼の子供は全て海の生き物であり、決して意識という陸へ上がれない未発達のものばかりということです。その上、古代魚ということはいかに大人として彼が成長できずに古いものしがみつき自分よがりで生きてきたのではないかと思います。また、陸に上がったときでも自分のまわりに水を撒くというのは防衛本能が働いていてあくまでもグランマンマーレから離れられないしょうもない大人というところでしょうか。

ポニョがハムを食べたり、血を舐める
っていうのは男からしたら怖いんです。女性がハム(肉)を食べるというのは太母に飲み込まれる、つまり「死」のイメージがあるからです。でもその後には「生」があるんですけど、だけど怖い。

最後にやはり映画としてはこれは難しい。はたして観客はこういうのを求めているのでしょうか?この映画の対象とする層が見えてこないんですよね。
アニメ業界や宮崎監督自身そして昔からの宮崎アニメファンはある程度時系列なかで宮崎アニメ(あえてジブリアニメとは言わない)というものを見ているのでしょうが、はっきり手書きだの作画枚数がどうのこうのというのは一般の人にはどうでもいいことです。あと企業の取巻き、チキンラーメンが露骨に出てきたときは流石に苦笑してしまいました。
宮崎監督の次回作があるかどうか解りませんが、もっと家族で楽しめ、笑い、その中でちょっとじ~んとくる観終わった時「おもしろかったね、感動した」と素で言える作品をお願いします。

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コールドケース4 第2話 「義手」

コールドケース4 第2話 義手
今回のあらすじは、川底を調査していた海兵隊が「義手」を見つける、その義手の製造番号から持ち主は女性イラク帰還兵のものだと判明した。その女性イラク帰還兵に何があったのか真相を解明するためにリリーたちが活躍するわけですが、う~ん、今回ははっきり言って第1話ほど話に入り込めませんでした。
義手の持ち主はディナ・テイラー伍長、旦那と娘の3人家族で彼女は州兵に所属していた関係からイラクに召集されて、輸送部隊に所属していました。ディナは輸送任務からの帰還途中に敵の攻撃を受け、彼女は右手を失い、同じ地区出身のトニーは右足を失い、友達のブレンダの旦那フランクは戦死してしまいました。ディナは家族の元へ戻るのですが当然PTSD等の後遺症が残るので家族との関係は出兵以前のようには行きません。ある日の夜、彼女は散歩に行くと出かけたまま家に帰ってきませんでした。そこで川底から義手だけが見つかるのですが、まず、疑われたのは帰還後に行われたパーティーで衝突した戦死したフランクの妻ブレンダ、彼女とは出征前から友達だったのですが、方や五体満足とは言えないものの生還し、方や戦死という関係から二人は衝突したのですが、その後仲直りしたそうです。次に疑われたのはディナの娘の学校で地元の帰還兵による発表会があったのですが、その発表会の時に、「女性が戦場なんて」と女性が戦場に行くことを批判した海兵隊員の男性、その次に疑われたのはディナの旦那の浮気相手と話が展開して行きます。そして真相はということになるのですが…。

う~ん、僕もYoutube等でイラクやアフガンなどの戦闘をたまに見るのですが、実際に経験したものでないとあの戦場の緊張感というのは絶対解らないと思うのです。あそこにはアメリカの市民権を得るために行った人も沢山いて、開戦から現在までに4千人のアメリカ兵が戦死したといわれ、負傷はその何倍にも上ります。その中には今回のディナのように五体満足で帰還できなかった兵士もいます。確かそういうのを扱ったサイトがあって僕も見たのですがショックを受けました。
戦争も抱え、サブプライム問題で炎上しているアメリカですが、いつも犠牲になるのは弱いごく普通の一般市民なんですよね。コールドケースはその弱い立場の人々に焦点を当てているところが好きなんですが、見れば見るほどアメリカって病んでるなぁ~、あっ、今は病んでいる所ではないか。

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「イカとクジラ」観たよ(ネタバレ有)

イカとクジラ
こちらもWOWOWでの視聴です。僕は普段今ロードショーでどんな映画が上映されているかあまりチェックしていないので良い映画を見逃すことが多いのです。そのかわりと言っては何ですが、最近は折角毎月WOWOWに高い金を払っているので元を取る意味でもなるべくマイナーでも良さそうな映画をピックアップして観るようにしています。
今回は「イカとクジラ」です。毎月送られてくるWOWOWの冊子の紹介文には「インテリの両親の離婚に直面した兄弟の苦悩を笑いと哀切を込めて綴る」とありましたが、何のことやら解りません。事前にネットでどんな映画か調べるのもいいのですが、余計な情報も入れたくないので全くの更の状態で鑑賞しました。

ストーリーは、ニューヨークのブルックリン、落ちぶれた作家で今は小説をどっかで教えている父親と家事の傍らで書いていた小説が認められ雑誌に掲載が決まった妻、そして二人の子供である兄弟の4人家族のお話です。
父親はかつて結構の知れた作家だったのですが、独善的な性格からか最近では出版社に投稿しても採用されず、逆に妻の方が日々主婦業の傍らで書いていた小説が出版に採りあげらる始末。夫は先輩面をして妻にアドバイスをするのですが、妻の方は全くそのアドバイスを受け入れず、夫婦仲は最悪。結局夫婦は離婚することになり、残された兄弟を共同監護という形で週の半分づつ両親のどちらかが面倒を見るということになります。
兄弟の兄の方は高校生で父親の言いなりに生きるタイプで、父親が「カフカ」の「変身」を良いと言うと、自分は読まないのにクラスの女子に「カフカの変身がいいよ」なんて言ってしまうのです。
弟の方はお母さんっ子で、将来テニスのプロになりたいという夢を持ちテニス教室のコーチに憧れていますが、父親から「今のテニスコーチはダメだ」と否定されてしまいます。
映画は家族4人をまんべんなく撮っていますが、メインは兄の自立です。
その後、兄はちょっとしたきっかけでクラスの女子と付き合うことになるのですが、父親に「あの子カワイイ?」と一々お伺いを立てるほどで親離れできていません。しかも、父親が教え子の女性といい仲になるとその女性にも興味を持ち始めるという有様です。母親は彼を「チキン(弱虫)くん」と呼んでいます。
弟の方は、父親が離婚したことをいいことに母親を女として見るようになり、大人ぶって酒を飲むようになったり、マスターベーションをして、所構わず精液を擦り付けます。このあたりは心理学者フロイトが言うエディプスコンプレックスの症状です。

物語の最後は、父親の言いなりになって父親の知識をまるのみして対外的に自尊心を維持していた兄ですが、人に本を薦めるのに自分は中身は知らないやら学校で自作の歌を披露してもその歌が盗作とばれてしまい、そのことでカウンセリングを受けることになりました。はじめ父親からそのカウンセラーは大したことがないと言われ舐めてかかっていたのですが、母との思い出を語れと言われて母と二人で博物館にいった話をしました。その時見た「イカとクジラ」の格闘している展示が怖かったと語るのです。そして次にカウンセラーから父親との思い出を語れと言われたときに兄は、特に何もない」と答えるのでした。

その時から小説家の息子という兄の自尊心が崩れ、自分というものを確認するところで映画は終わるのですが、この映画のタイトルになっている「イカとクジラ」は、母と二人で見た博物館の展示から来ていますが、これは僕の見方ですが、イカが父親でクジラが母親を指していると思うのです。特にクジラはグレート・マザーの象徴でもあります。実際のクジラはイカを丸呑みしますが、ピノキオなどの物語ではクジラに呑み込まれた者が何とかしてクジラの腹から出てくるシーンがあります。それは死と再生を意味するものです。兄は小さい頃、父親の威厳に頼って生きていくわけですが、それが打ち砕かれたとき一度自分を殺します。これは公園の池に入っていくシーンに象徴されます。そこで蘇った彼は成長して両親というものを客観的に見るようになります。それが最後の博物館のシーンです。実際夫婦仲が醒めて緊張状態の時は怖く感じるように小さい頃見たこの展示物は怖かったと言ったのでしょう。この映画は兄の自立と成長を映画だと言えるでしょう。
最後にあの博物館の「イカとクジラ」の展示物ですが、エロイと感じたのは僕だけでしょうか?クジラに呑まれないように格闘するイカ、そのイカの足の一本がクジラの口の中に入っているのを見てそう感じたんですけど変かなぁ?

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コールドケース4 第1話 ビデオカメラ

コールドケース4
WOWOWで人気の海外ドラマ「コールドケース」の待望の第4シーズンが始まりましたね。この"コールドケース"というのは未解決事件のこと、舞台はフィラデルフィア、市警殺人課の刑事ドラマです。
主人公はリリー・ラッシュ(キャスリン・モリス)という女性の刑事です。
同僚にスコッティ・ヴァレンズ(ダニー・ピノ)、ニック・ヴェラ(ジェレミー・ラッリフォード)、ウィフ・ジェフリーズ(トム・バリー)この方は元空軍の軍人で三沢基地にいたそうです。キャット・ミラー(トレイシー・トムズ)この方は「プラダを着た悪魔」で主人公の友人役で出ていましたね。あと上司のジョン・スティルマン(ジョン・フィン)というところでしょうか。いや~、皆さんスーツの着こなしが素晴らしい。

このドラマは何でもアメリカの殺人には時効がないらしくこういうドラマが成立するのですが、未解決事件の捜査ですから事件当時の年代と現代とで事件関係者の俳優が違うと言うところでしょうか、もちろん似た俳優さんを起用するのですが、たまに「こりゃないでしょ」という時もあります。しかしピッタリ「あー、確かにこの人が年を取るとこんな感じになるのかなぁ」とはまったキャスティングだと、アメリカの俳優さんの数というか懐の深さに驚嘆します。
製作総指揮は「パイレーツ・カビリアン」や同じ刑事もののドラマで有名な「SCIシリーズ」のジェリー・ブラッカイマーです。
ストーリーは日本のドラマほどベタでお涙頂戴ではないのですが、ヒューマンドラマとでも言うのでしょうか、結構人情ものです。また、アメリカ社会の問題点を痛烈に取り上げています。人種問題とかたぶん日本では局が二の足を踏んで避けてしまうような題材を扱ったりします。
あと、音楽の話もしないといけませんね。ドラマで使用されている音楽は事件当時流行った曲が使われています。これはこれで当時の雰囲気とかが伝わっていいのですが、反面、このドラマのDVDが発売されないのはこの楽曲の権利の問題ではないかといわれています。そのリスクを承知で製作されたのか、あとで解ってDVDの発売を断念したのか解りませんが、これは非常に残念です。ですので日本の私たちがこの作品に触れることができるのはWOWOW様々ということですね。

で、今回の第4シーズンの第1話は”邦題:ビデオカメラ 原題:RAMPAGE”
因みに原題のRAMPAGEとは”暴れ回る”とか”暴力事件”という意味があるそうです。う~ん、今回は邦題の方がしっくりくるかなぁ~。
時は1995年、ショッピングモールで高校生二人が銃を乱射し、買物客15人を殺害するという事件が起こった。この高校生たちは乱射後に自殺をしたのですが、10年以上経ってこの乱射事件を撮影したビデオカメラが発見されます。そのビデオの内容でこの高校生二人以外にもう一人このビデオを撮影した犯人がいるということが解りました。今回はこの人物を追ってリリー達が活躍する訳ですが、始めはオンラインゲーム仲間を疑ったり、ショッピングモールの警備員を疑ったり、いつもの自白強要まがいの捜査をするのですが、さて真相は如何に?というところでしょうか。
今回、Jeanette Brox(ジャネット・ブロックスでいいんでしょうか?)という女優さんがティナという役で出演しているのですが、この方がいい演技をしています。いや今回のエピソードは50分くらいのドラマなのですが、映画1本並みのクオリティです。下手なハリウッド映画よりも全然いいです。もとい第一級の映画と言えるでしょう。まぁ第1話で「掴み」ということで気合を入れたのでしょうが、その分、日本の声優さんも気合が入っていましたね。いや~ぁ、素晴らしい。第2話以降も楽しみです。

先週無料放送で昼間にやってたの見逃したよ~っ。

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「パパにさよならできるまで」を観ました。

パパにさよならできるまで
今回はWOWOWからです。この映画はギリシャとドイツの合作映画で舞台はギリシャです。
公式サイトはこちら
なお、DVDは発売されていないようですね。
交通事故で亡くなった父親がした次男との約束、それは「一緒に月着陸を見よう」。
交通事故で亡くなった家電の行商をしている父親の「死」を10歳の次男主人公イリアスが内面で消化していく過程と、それまでの家族を描いた作品です。普通の泣ける映画かな?(といっても僕は涙腺が緩くないので滅多なことで泣かないのですが)と思ったのですが、僕は正直感情移入できませんでした。
それは主人公イリアスの世界があまりにも自分と父親で完結していて、家庭内でも学校でもそれを通そうとする。つまり我が侭なのです。男の子っていうのは生まれた時は母親の母性がなければならないのだけれども、ある時期から同姓の強いものにあこがれます。ウルトラマンとか戦隊もののヒーローに憧れるというのはそういうことなんですけど、この主人公イリアス君についてはちょっとその時期が長いのかな?という感じはします。観ていて誰かコイツを「ぶん殴れ」といいたくなりますね。というか誰も映画では大人は主人公に対して手をあげていません。ちょっと過保護かなという感じがします。
実はこの映画、都合2回見たのですが、映画のターニングポイントとしては父親の葬式の時、主人公イリアスは家族や親戚と一緒に参列しないで教会の塀の外で、父親が行商の土産に買ってきてくれるチョコレートを食べるんだけど、その直後から主人公イリアスに父親が憑依したようになるのは解るのですが、その後展開も僕自身は「なるほど」と言わせるものがありませんでした。
で観ていて主人公イリアスよりも気になるのが主人公の長男アリスのことです。どうもアリスは高校生ぐらいだと思うのですが学校に行かないでふらふらしているようなのです。その辺りはいいとしてアリスはどうも家の中のバランスを保とうと必死のようです。次男である主人公イリアスが父親にべったりなので自分が母親に寄り添ってないと母親の身が持たなくて家庭が崩壊してまうのではないかと。長男アリスだってこれから男になるにあたって父親から学びたいことは沢山あると思うのですが、「そうしたら一体誰が母親を庇うのか?」と思春期の一番大事な時に心が引き裂かれそうになっている長男アリス、僕は長男ではないのですが、主人公のイリアスよりアリスの心情のほうが伝わってきて「おまえもつらいよな」と言いたくなるのです。
で母親はというと、これは不謹慎なのですが、このままだと旦那の代償にと長男と近親相姦ということになりかねんぞ。
パパにさよならできるまで
しかしギリシャ人の男性の肉の付き方というのはいいですね。長男アリスといい、葬式の時に棺おけを埋めている人といい、ちょっと嫉妬。もちろん僕にはその気はないのですが、ギリシャ彫刻に見られるような男性像はある種理想化されたものであるけどもなまじ嘘ではないみたいです。

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マリオネーションのCM 第2弾?

The AXE Effect CM
5月11日に記事にも記事にしましたが、ユニリーバ・ジャパンから発売されている男性用フレグランススプレー「The AXE Effect(アックスエフェクト)」のCM何だけど、同じくマクロスF観ていたら第2弾らしきものが流れていました。まぁどうでもいいんだけどね。
やっぱり「TEAM AMERICA」なんだろうか?

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「西の魔女が死んだ」を観に行った。

映画に関する情報は公式サイトで見てね。

この映画、原作があるようなのですが、僕は原作を読んでいないので、あくまでも映画のこと限定でレビューします。
なぜ、この映画を見に行ったかというと、今ちょうど河合隼雄氏の「ファンタジーを読む」を読んでいてこの映画もそのような雰囲気を醸し出していたからと、主題歌を新居昭乃さんが作られたということです。
実際、映画としては脚本がダメですね。会話になっていません。「話し言葉で一般人がそんな単語使わねぇよ!」とか、「この夫婦じゃよそよそしくて、ガキが不登校になるわ」とか、あと、邦画にありがちな監督らが良かれと思ってやっていることが全て裏目に出ているとか、「何だ?あの郵便屋のバイク、笑えねぇ」という感じです。
また、演技についてもステレオタイプ的な演技が鼻をつきます。
あと、ドラマラインは山無し谷無しです。客入りは午前の部で半分くらいでしょうか?
では、面白くないかというと、そんなことはありません。散々貶した後でなんですが、
これは、原作がいいからかも知れませんが、是非、ご自分でご覧になって、
自分自身でじっくり考えるにはいい映画です。



この先、観て来た人用(ネタバレあり)
観てない人は絶対見るなよ、ゼッタイに!


ペルソナ
一般の中学校では、学年ごとにクラス替えをするので、その時々で友達関係も変化を求められる。これは身体的にも精神的にも成長する多感な時期なので複雑です。主人公まいは、おそらく学年が変わって人間関係を再構築するにあたって自らのペルソナに気づいたんだと思います。

ペルソナとは、人間は社会生活を営む上で、「学校での私」とか「家庭での私」など環境に合わせ適切と思われる態度をとっています。ペルソナとはもともとラテン語で古典劇において役者が用いた仮面のことであり、心理学者ユングは、環境に合わせ仮面のように態度も変化させることから、そのことを「ペルソナ」と名付けました。

自らのペルソナに気づいた主人公まいは、それを本当の自分では無いと思ったのでしょう。そこであえて周囲に合わせるという行動をやめてしまいました。つまり学校という仮面舞踏会で仮面を取り外してしまったのです。当然周囲から隔絶されますし、自らも疎外感を感じ不登校となってしまったのです。

人間は社会生活でペルソナを必要としますし、また、なければ生きていけません。母親なら母親としての態度、父親、学校の先生、会社の社長、部下をもつ上司にもそれ相応の態度というものがあります。その態度が適切に機能されているからこそ社会も適切に機能するのです。確かに「さっき私は友達に話をしていて笑ったけど、その笑ったのは私の本心だろうか?」という疑問が出て、「愛想笑いかな?」と自分に対して嫌悪感を持ったりする時期があるかもしれません。この映画の主人公まいもちょうどそんなことを感じる時期だったんでしょう。

おばあちゃんの家、そしてこころの聖域
不登校になった主人公まいは、母親の進めもあって祖母の家出暮らすことになりました。つまり日常から一旦離れることにしたわけです。多くの物語がそうであるように旅とは日常が非日常へ行くことですし、また精神的に成長する場所でもあります。そこで祖母と一緒に暮らすのですが、森の中で主人公まいは自分のお気に入りの場所を発見し、そこで物思いにふけるのでした。この場所は彼女にとって内面の世界であり聖域なのです。

生と死
ある日、にいわとり小屋が何者かに荒らされて飼っていたニワトリが殺されてしまいました。
主人公まいにとってにわとりとは卵を産んでくれる存在です。そのにわとりという新たな生命を産むものが殺されてしまった訳ですから彼女はそこで死という現実に直面します。これが彼女が「死」というもの考えるきっかけになったと思います。

外面と内面
ある意味、外面的な人間付き合いから逃避して祖母の家にやってきた主人公まいですが、そこで自らの内面の聖域を森に見つけたと先ほど言いました。しかしある日、いつものようにそこでくつろいで物思いにふけっていると突然、風が吹いて雲行きがあやしくなり雨が降ってきました。外面が人間の性(サガ)で変化し安住できないとしたら、内面はある意味自然の摂理のようなものがあり、安住してはいられないのです。そこで主人公まいは外面と内面の間で苦しむことになるのですが。

魔女になるためには
森で雨に打たれ、傷心した主人公まいに祖母はうちの家系は魔女だと知らせます。それを聞いた主人公まいは、自ら志願して魔女の訓練を始めたいと祖母に願い出るのですが、祖母は魔女になるには日常生活を規則正しく、そして決めなければならない事は自分で決めることから訓練しなければならないと教えます。これはハッキリ言って自我の強化ですね。ユング心理学でいう「自我」とは、人間は「私は私」ということの確認を「顕在意識」でしているのですが、その中心となるのが「自我」です。そして人間は自我による意思決定をして行動し、結果を評価するからこそ「自信」を持つことができるのです。つまり祖母は主人公まいにもっと自分自身に自信を持って欲しかったのでしょう。それには主人公まいの自我は弱いということも感じたようです。

死んだらどうなるの?
主人公まいは、祖母に「死んだらどうなるか?」と疑問をぶつけます。主人公まいは「ある人から死んだら何も残らないと聞いた」といいますが、祖母は死んだら体から魂が離れて、魂は残るといいます。そして、自分が魔女という証に、祖母は自分が死んで肉体から魂が離れたら、彼女に知らせると約束をするのです。

聖域を犯すもの
ある日、森のいつもの場所にやってきた主人公まいは、隣に住む男がその場所で土を採っているところに出くわしました。怒った彼女は祖母に「あんなやつ死んでしまえばいい」と言ってしまったのです。それを聞いた祖母は彼女のほおを叩き、それ以来、主人公まいは祖母との間に溝ができてしまったのです。これは彼女は自分の内面の聖域である場所が他人に踏み込まれたと思ったからでしょう。誰にでも触られたくない内なるものがあります。

親子三人で
今まで別居状態だった両親ですが、母親の気が変わり、親子三人で暮らすことが決まりました。しかし、主人公まいと祖母とのこころの溝は埋まってないままに主人公まいは祖母の家を離れ親のもとへ戻ったのです。

魔女の死
それから2年が経ち、祖母は死んでしまいました。主人公まいはあの時以来、祖母の家に言っていません。祖母の死の床へ向かう車の中、母は彼女に「祖母は魔女よ」といいます。
そして祖母の家に着いた主人公まいは窓に祖母が書いた彼女へのメッセージを発見するのです。「西の魔女から、東の魔女へ 魂の脱出 成功」と、それを読み終わった直後、隣に住む男が「なにか手伝えることがあったら言ってくれ」と彼女に言うのでした。この男、主人公まいがお気に入りの場所を穢されて「死んでしまえばいい」と言ってしまった男です。その男にやさしい言葉をかけられたということは、人は他人の大切な内面に触れることもあるけど、悪気があってやっているのではないし、恐れることはないんだよと言っているように感じられます。つまりそうやって内面に踏み込まれることで人間というものは成長するんだよと言っているのです。

結局何だったんだこの映画!
最近、硝酸自殺などで若い人が簡単に死に急ぎます。社会のレールにうまく乗れず、「不適合」という烙印を押され、心も体も未発達のまま、あまりにも簡単に自らの命を絶ってしまう。「出来てあたりまえ?」、「失敗したらいけないの?」、「じゃあ練習は何処でするの?」という悲痛の声が聞こえてきそうです。早いうちから膨大な情報を与えられ、外面だけ早熟することを要求される現代の日本の若者。つまづいてしまった人たちはこの映画のような「おばあちゃんの家」みたいな所に行ければラッキーですが、それとて「富士の樹海」「精神病院」「硝酸ガスの中」と紙一重だということを考えるとこの映画から一つの答えのようなものが見えるのかもしれません。
私たち人間は、科学技術という「魔法」みたいなものを手に入れて表面的には便利な生活を送っていますが、では「心」「魂」はどうでしょう?あまりにも蔑ろにしてきたのではないでしょうか?そんな「心」「魂」に魔法をかけてくれるて救ってくれる人、その人が女性ならば、「魔女」と呼ぶしかないでしょう。そして魔法をかけられたことを知っている人があらたな魔女になる可能性を秘めているのです。たぶんこの魔女のことは母親も知っていたというか彼女自身も同じ経験をしたのでしょう。母親はそのままの自分の部屋を主人公に見られたくなかったようですし、不登校になった娘をあまり責めないですしね。人間の「外面」「内面」の関係、「生」と「死」を考えることは一つの通過儀礼といいましょうか。この映画はそのことを私たちに伝えてくれるような感じがしました。

最後に河合隼雄氏が「たましい」について一言述べています。
人間の存在を身体と心に割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるもの、あるいは、身体と心というものを統合して、一人の人間存在たらしめているもの、それが「たましい」である。
「ファンタジーを読む」河合隼雄 著 講談社+α文庫

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幸せのちから(映画のワンポイント)

幸せのちから
今回も、WOWOWで放映されたものを取り上げます。題名は「幸せのちから」(原題:The Pursuit of Happyness)です。
この映画は2006年の映画で、年代設定は1981年です。主演はウィル・スミス、子役にウィル・スミスの実の子が熱演して話題になりました。
ストーリーを簡単にお話しますと、医療機器(骨密度測定器)のセールスをしている主人公クリス(主演ウィル・スミス)は、最近セールスがうまく行かず収入がなく家賃も滞納して困っていた。妻のリンダも家計のために働きづめで実際、夫婦関係はうまく行っていない。二人にはクリストファー(ウィル・スミスの息子)という一人息子がいる。
ある日、主人公クリスは今の暮らしを変えようと証券マンになることを決意し面接を受けるが、応募した会社に採用されるには半年の無給のインターンシップ(見習い期間)を経てテストに合格にしなくてはならず、しかも、採用されるのは20人中ただ一人という難関だった。
やがて、収入の無い旦那に愛想を尽かして妻リンダは家を去ってゆく、残された親子は家賃滞納のため、大家から家から追い出されてしまい、二人はモーテルに移り住み、主人公クリスは売れ残った医療機器を売りながら証券マンにチャレンジをする。
やがて金銭的に苦しくなった親子二人はホームレスになり、教会の施しを受けるようになったが、クリスは証券マンを諦めず、見習いを続ける。その後、この親子二人はダメになっていまうのか、または主人公クリスはみごと証券会社に正式採用されるのか?映画を観てのお楽しみというところでしょうか?
この映画は実話に基づいて作られたそうです。

ここからの続きは観た方用
この映画の原題は、「幸せの追求」で、父親が最後の最後まで諦めずに頑張り、最後に成功を手にするというストーリーで、「愛する息子の為に」と奮闘する父親の姿が感動的に描かれており、親子愛というものをみせてくれます。
とくに父親が息子に対して「たとえ相手が父親でもムリと言わせるな」というセリフや、落ちるところまで落ちて地下鉄のトイレで眠る息子を抱きながら涙するシーン、また採用が決まったときの父親の涙は演技を超えたものがあります。
そういった感動的な映画なのですが、観ている僕はいま一つという感じありました。というのはこの映画で起きるエピソードは何か予定調和な感じがすることと、話自体、奇跡に近いようなサクセスストーリーだからです。
ですで、五つ星で評価すると★★★☆☆という感じてしょうか。
しかしこの映画、気づいた方もいらっしゃると思いますが、「最後まで諦めるな」、「親子愛」以外にメッセージがあります。

小道具で語らせるメッセージ
主人公クリスの前の職業は医療機器のセールス、この医療機器がちょくちょく盗まれて、それを主人公は取り返そうと必死になります。実際、証券マンになる為の努力も必死にするのですが、それ以上にこの医療機器に執着します。
それはこの機械にあるメッセージが込められているからです。そのメッセージとは「Time is money」、そう時は金なりです。まあ「時は命」だという解釈もありますが、この映画でいえばどちらもありでしょう。
では、なんでそんなことが言えるのかというと
まず第一に、冒頭でホームレス風のおじさんが、主人公が持っているこの機械を指して「これは、タイムマシン?」と尋ねます。そこでタイムマシンという言葉をそのまま受け取らないで「機械の時間」と考えてみてください。
幸せのちから

そして第二に、主人公が証券マンにチャレンジすると決意した時、売れ残っていた機械は6台です。ちょうど見習い期間と同じ数です。
幸せのちから
そして第三、最後の機械が壊れていて売ることができない、もう親子にはお金がありません。もうここまでか!という時、そこで主人公クリスは売血をして機械の部品を購入します。そこで修理して直ったとき希望の光が差し込んだ、いえ、希望の光を自らが灯したのです。つまり時間という機械を蘇らせたのです。
幸せのちから

実際このメッセージは勘のいい方なら、すぐ解ったでしょう。しかし、僕は見終わった後、「この機械に何かあるな」とは思ったのですが数時間解りませんでした。映画って難しいですね。

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17歳のカルテ(映画のワンポイント)

17歳のカルテ
さて、今回はWOWOWで放映された「17歳のカルテ」です。1999年の作品ですが、日本での公開は翌年です。
主演はウィノナ・ライダー(言いにくい名前)、助演アンジェリーナ・ジョリーで、彼女は本作品でアカデミー賞で助演女優賞を受賞しています。他にはウーピー・ゴールドバーグが出演しています。
冒頭でサイモンとガーファンクルの「Bookends Theme」という曲が流れてきます。この曲はたしか公園のベンチにまさにブックエンドのように二人の老人が座り、過去を懐かしんでいるというような内容の曲で、この映画の主人公スザンナ・ケイセンは、精神を患って入院した経験を「思春期病棟の少女たち 原題:Girl. Interrupted」という本にしていますので、彼女自身が過去を振り返るという意味でこの曲を使用したのではないかと思います。
話は少し横道にそれますが、僕は、中学生の頃サイモンとガーファンクルに心酔していて(1981年の再結成来日コンサートにも行きました。当時は東京ドームではなくて後楽園球場でしたが(笑))、この曲が収録されている「ブックエンド」というアルバムも持っていました。このアルバムには映画「卒業」で使われた「Mrs Robinson」という有名な曲も収録されていましたが、僕としては2曲目の「Save the life of My Child」という曲が衝撃的でした。この曲は今、まさにビルから飛び降りようとしている少年とそれを見ているだけの野次馬、警察が駆けつけてきても「今の若者ときたら」と悪弊をつくだけで、少年の母親がなぜこんな事態になったのか訳もわからずただ空しく「息子の命を助けて!」と叫んでいるというそんな状況のなかで、「僕には隠れるところが無いのです。」と少年はやがて宙に身をゆだねて行くという曲です。この曲が作られた背景はよく解りませんが、中学生という多感な時期にこの曲を始め、サイモンとガーファンクルを聴いていた僕は、自分の内面に閉じこもり周囲と距離を置き、人付き合いの面で苦労したという経験があります。
で、この映画の話に戻りますが、この映画では主人公は高校を卒業したばかりで、作家になりたという理想と現実の中で精神は、過去、現在、未来という時間的感覚を失い幻覚を見るようになり、その症状を取り払うためにアスピリンとウォッカを一瓶飲んでしまい、サナトリウムに入ることになり、医者から「境界性人格障害」と診断され、それを克服するまでの物語です。この少女の症状に似たことは程度の差があれ、誰にでも経験があるでしょう。「早く、大人になりたい」という気の焦りとか両親を見て「大人になりたくない」と思ったり、しかし体だけは正直に成長していく。そして自分にす「私って誰?何者?」と問うのです。酷くなるとその心と身体の乖離に体を傷つけることで痛みを感じ、SEXをすることで快感を感じなければ、自分の肉体を確認できない状態になってしまいます。

手に骨がない
17歳のカルテ
主人公スザンナは冒頭、「私の手には骨がないの」といいます。医者は「じゃ、どうやって薬を飲んだんだい」と問い、それに対してスザンナは「その時だけ、骨が戻るの」といいます。
以前、僕は「シザーハンズ」と「モンスター」を話題にしましたが、「シザーハンズ」は手がハサミですし、モンスターの時は手にギブスをはめていました。これを話題にしたとき、手は顕在意識(又は自我?)の象徴であり、無意識は直接手を出すことはできないというようなことをお話しましたが、ここでも手のことがでてきます。ここで「手の骨がない」といっているのは、あきらかに自分を自分と認識する自我がないか又はあざが出来ていたので傷ついているといっているのです。

オズの魔法使い
この映画、ちょっと不謹慎な見方をすればファンタジーの構造を持っているのがわかります(話のなかでオズの魔法使いがでてくるので、それとなくわかりますが…)。サナトリウムが異世界で魔女がリサ(アンジェリーナ・ジョリー)、しかし、主人公スザンナも不安定、その仲間も不安定な性格を持っていますので安定的な人物が必要なります。この人物は主人公が現世に戻るために指標的な役割をもっています。これがウーピー・ゴールドバーグが演じる看護婦です。魔女役であるリサは、最初とっつきにくいのですが、主人公スザンナにこの世界で生きていくルールを教えます。これはオズの魔法使いでの優しい魔女グリンダといえるでしょう。しかし、この魔女役のリサでさえ、脱走しても結局は連れ戻されてしまうほどこの異世界は強力で途中離脱は許されない世界なのです。そのいい例がデイジーの件です。デイジーは彼女自身が表面的に繕ったのかリサの言うとおり医者から見離されたかどうかはわかりませんが、表面的には病気が治ったとして退院します。しかし彼女に付きまとっている影はそのままです。彼女の影は、アニムスとしての父親を求め、その為に自らの身体を傷つけるのです。彼女は入院中も父親の店のチキンしか食べていませんでした。つまり父親の肉を食らい(口からヴァギナから)、自らの身体に取り入れることで自らを充足させていたのです。そのことをリサに指摘されたデイジーは自殺をします。この自殺は強力になった影から自我を守るための最終手段かも知れません。このように異世界の魔女であるリサは、自分から離れていく人物を破滅させています。主人公スザンナが入院する前に彼女のベッドを使っていた患者もリサがいなくなって寂しくて自殺をしてしまっていることからして、あらゆるもの飲み込み離さないで死に追いやるグレート・マザーの悪い方の面をもっています。そのくせ彼女自身もこの異世界から脱出したいと思っているのです。このデイジーの自殺で現実に直面した主人公スザンナは、リサと一緒にいてはやがて自分もこうなってしまうと理解するのです。つまり最高の現実である「死」を直面したことにより自我を回復しなければならないと自覚したのです。(心理学者ユングも学校恐怖症で1年間休学していた時があったそうです。その時、ユングの父は息子を治そうと必死で蓄えのすべてを注ぎ込んだそうです。そのことを知ったユングは「今や私は、私が今自分自身であり、今、私は存在しているのだということを知った。」と言って病気に懸命に取り組み克服したそうです。)
そして主人公スザンナは、自分自身のことに取り組んでいきます。そしてそのことで見えてきたのです。リサこそこの異世界からもっとも離れなれない人であることを。そしてリサの魔性と対決するのです。武器は「現実」です。リサに彼女のおかれている現実を突き付けた主人公スザンナは、自分自身の影であるリサを受け入れます。そのシーンが冒頭のシーンですね。そうして自我の中に自らの影を認め自己の全体性を回復します。これの逆のことが先ほど述べたデイジーの件です。リサは彼女に現実を突き付け突き放したのです。だからデイジーは自殺をしてしまったのでしょう。

最後に、この60年代というのはアメリカがベトナム戦争をしていた時期で、徴兵制で男たちが強制的に殺し合いに行かなければならないという現実がありました。この誕生日で誰が徴兵されるかくじ引きで決められるシーンは、WOWOWの海外ドラマ「コールドケース」のエピソードの中にもありました。フェア精神を重んじるアメリカのフェアなあり方があのようなくじ引きになったのでしょうが、傍から見ると残酷です。まぁアメリカ自身もトラウマになっているようですが、そのような状況から女性たちも普通ではいられなかったでしょう。「死」という現実に直面している恋人とか友人が傍にいたら女性は、今の自分というものが果して現実なのかと問いたくもなるのが普通でしょう。この映画はそんな一面も語っているのではないでしょうか?

しかし、リサ役のアンジェリーナ・ジョリーの演技はすさまじいものがありますね。アカデミー賞受賞も納得です。

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シザーハンズ―特別編―(映画のワンポイント)

エドワード シザーハンズ
毎度ネタが古くて恐縮です。今回は、ジョニー・デップの出世作、ティム・バートン監督の1990年の作品「シザーハンズ(edward SCISSORHANDS)」です。僕はこの映画はレンタルビデオで最初観たのですが、数年前DVDの低価格版(999円)が発売されたので購入したのですが、そのまま今まで放置していました。以前観た時はティム・バートン監督の独特の世界観に魅了され、とにかく「切ない映画だなぁ」という感想でしたが、今回購入し、放置してあったDVDを改めて観たらちょっと印象が変わりましたのでいつもの通りユング心理学と絡めて2、3ポイントをお話したいと思います。
この映画の主演はもちろんジョニー・デップですが、物語の主人公は高校生の娘「キム(ウィノナ・ライダー)」ですね。これは老婆(キムですね)が孫娘にお話を聞かせてあげるシチュエーションから映画が始まり、同じシチュエーションで終わりますので誰が観ても明らかです。では、この映画は何を言おうとしているのか?ということになりますが、表面的にはハンディキャップを負った、手がハサミの純粋無垢の青年と女性の恋物語となるのでしょうが、ハサミ男というキャラクターが強烈ですので、ちょっと考えてみましたら、これは少女の自己が更に高いレベルに成長する過程を描いた作品だという解釈になりました。
それはどういう意味かという前に、ユング心理学には「アニマ」「アニムス」という概念があります。
そのことについてちょっとお話しようと思います。

「アニマ」「アニムス」とは
「アニマ」は、男性の心のすべての女性的心理傾向が人格化された元型でり、すべての男性は自分のアニマ像をその母親増から発展させてくるものでる。「アニムス」はその逆で女性の心のすべての男性的心理傾向が人格化された元型であるが、男性のアニマの場合は、その人格は一人とされているが、女性のアニムスの場合は複数存在すると見なされている。
ユングは、アニマは男性にムードをかもしださせ、アニムスは女性に意見を主張させると述べています。

つまり、平たく言うと男性の無意識の中に女性像がいて、逆に女性の無意識の中にも男性像がいるということです。
ということは、この映画のストーリーはウィノナ・ライダー演じる女性のキムが主役ですので、アニムスについてのお話となります。
そのキムのアニムスがジョニー・デップが演じるエドワードということにあるでしょう。
では、なぜ僕がこんなことを言えるのか、理由をいくつか述べていきます。

町の中で、嫌悪感もってエドワードを迎えたのはキムだけである。
これは、自我が無意識を排除しようと防衛しているからです。これは以前なんかに書いてあったのですが、残念ながら失念。ただ、「個性化とマンダラ」(C.G.ユング 林 義道訳)にはこうあります。
われわれは無意識もいろいろな本能やイメージがただ混沌と集まっているだけのものではないと、信じざるをえないほどである。たぶん何ものかが無意識を関係づけ、それを全体として表現するのであろう。その中心はもちろん自我ではありえない。なぜなら自我は意識のなかへ産み落とされ、無意識をできるかぎり排除することによって無意識にさからうからである。

エドワードとその家はモノトーン、町はカラフル
この映画のおもしろいシチュエーションがこのカラフルな町並みでしょう。アメリカの中流新興住宅地の家も車も住民も全て色がついています。
これは明らかに、こころの世界と現実の世界を表しています。つまりそこまで記号化するために徹底的に町をカラフルにしているわけです。こころの世界はモノトーンです。エドワードは徹底してモノ