
多分、このような映画の深いところ先に読んじゃうと、先入観で映画に集中きなりますので、
以下のこの文章は、映画「パコと魔法の絵本」をご覧になった方のみお読みください。
まず、この映画の語る前に、ユング心理学の”アニマ”からお話しなければなりません。
”アニマ”は男性の無意識における”女性の人格を感じさせる心のパターン”、つまり、簡単に言うと、男性の無意識に存在する女性像です。
大貫ってどんな人?
大貫は抑圧的で自尊心の塊のような人物です。この”自尊心”を象徴するのが”金のライター”です。大貫は自らの自尊心に火をつける(ライターの役目)ことで生きてきた人間と言えるでしょう。
葉巻の煙によって、自分の威厳をふり撒いています。これは一種の防衛的な行動とも言えます。
また、常に抑圧的だったことから無意識内の”アニマ”が退行してしまったか、未発達のままなのかは今の僕では解りませんが、大貫のアニマであるパコが、母親からあまり自立していない男性に現れる「清純乙女型のアニマ}であることから、おそらく未発達のままだったのでしょう。
大貫は金のライターを無くし、またライターの火が点かなくなることで、はじめてパコに対して真摯に付き合おうとします。人は何かを無くしたり、余計な拘りが無くなってはじめて気づいたり、そのものの本質が見えたりします。
パコ
パコは、交通事故で1日しか記憶がもたない少女と大貫のアニマという大きく2つの要素がありますが、実は登場人物全員のアニマであり”影”であったのではないでしょうか?”影”とはユング心理学の概念で”個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が許容しがたいとしている心的内容”のことをいいます。
病院内の男性の登場人物にはアニマとしての”パコ”
病院内の女性の登場人物には影としての”パコ”
なのでしょう。
パコの役目
ユングの”自己実現(個性化)”とは、ユングは人間の心全体を自己(Self)と定義し、自己は2つの要素”意識”と”無意識”とで成り立っていると定義しました。
また、意識の中心は自我であり、普段僕たちの意識的な行動はこの自我によるものです。
また、もう一つの無意識の方ですが、無意識には体験で獲得された後天的な”個人的無意識”と人類共通に持っている先天的な”普遍的(集合的)無意識”の2つがあると定義しました。
大貫の”アニマ”であるパコは、この”普遍的(集合的)無意識”の中にあるとされている”元型”という、”人が生得的に持っている「大母」「父」「異性の象徴」「賢者」「神」「自分の影」のイメージを作り出す
もとです。人はこれらを予め持っているのですが、これらが現れるのは自我が弱くなった時の睡眠時に現れる「夢」などにしかありません。普段は個人的無意識の中にある”コンプレックス”によって屈折されるか、あるものに投影された状態でしか姿を現さないのです。
”コンプレックス”は自我が意識に必要がないと捨てたり、自我が脅かされると判断して抑圧したりしたものの「複合体」です。ユングによるとコンプレックスは元型と密接していると言っています。
ユングはこのコンプレックスに密接した”元型”を意識化して自我に取り入れ統合することを”自己実現”または”個性化”と読んでいます。
パコは大貫にとって、”元型”です。しかもそれはコンプレックスによって7歳の少女のままのイメージです。
大貫はそれを自分のものと認識し、自我の中へ取り入れ統合する行為の過程がこの映画の劇中劇の「ガマ王子とザリガニ魔人」を演じることにあるのです。
そして大貫の内面で起きていることをイメージ化したものがコンピュータ・グラフィックスの部分なのです。(夢の中と同じ状態と考えてください。)
多くの物語で陸は”意識”、水の中は”無意識”という比喩的なお約束があります。これは「崖の上のポニョ」でも同じです。カエルは両生類ですの陸でも水中でも生活ができます。大貫はそのカエルになってパコを救いだす。つまりパコと同じレベルまで下げて自らの無意識の中のものを取り込んで自我をより高い次元へ統合しようとしているのです。
大貫の臨死
大貫はこの劇中劇が終わると倒れてしまいました。これは死(臨死)の体験で自我がより高い次元に発達し、古い自我が死んだことを意味しています。この後、消防士が雨をホースで降らせるのですが、これは授精という意味があって再生のための雨です。母なる大地は雨によって肥え、新しい生命を発芽させます。これによって大貫は生き返るのですが、パコはその役目を終え死んでしまいます。ということはパコも死んで新しい発達したアニマとなって再び大貫に宿るのです。
なぜ大貫は名前をパコに覚えてもらおうとしたのか?
この映画では、パコは交通事故により自分の記憶が一日しか持たないという設定があります。それはあくまでも表の設定であって、それはとは別にパコは大貫の意識の中に取り入れられるアニマとしてのパコという裏の設定があります。大貫に意識に取り込むということは大貫の自我がそうしているのであり、
自我は持続性と同一性という性質を持っていなければならないということです。つまり映画では大貫はパコに毎日々、自分の名前をパコに教え、その過程で大貫はパコを意識の中へ取り込もうとしているのです。また、大貫はパコ以外の登場人物に対しては「自分を知っているというだけで腹が立つ!」と言っているのは、名前を他人に知られることで、自分が他者にコントロールされるのを嫌がっているということだと思います。
これを書いていて、僕自身がユングの言う「自我」「意識」「個人的無意識」「普遍的(集合的)無意識」がよく解っていないとことを痛感しました。誰かに修正または補完していただくとありがたりです。
ユングの定義、概念とその関係性の解釈に自信がありません。勉強不足です。
参考にしたのは河合隼雄氏と林義道氏の2つの「ユング心理学入門」です。
林道義氏の「ユング心理学入門」3部作がPHP研究所にて絶版扱いになっているのが悔やまれます。再販をして多くの方に読んでほしい書です。
最後に、映画「パコと魔法の絵本」に伴って、観ていなかった「下妻物語」をやっと観ました。これはユング心理学で解釈すると”影”ということになるでしょうか?相反するお互いにある自分の”影”を認め合うことで成長するという映画ですね。いい映画だと思います。
中島監督は、写実的な映像、演技ではなく、デフォルメされたものの中から真実を見せるという浮世絵などからアニメにいたる脈々と受け継がれた日本的なものをうまく扱ってみせる監督だと感じました。
早くDVD発売にならないかなぁ~
BD版が出たらそっち買っちゃうかも?
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